知ってる?
 魔法ってね、悪魔の法なんだって。人に厄災をもたらし、死と殺し合いを教えた禁術なんだって。
 だから、空に逃げた悪魔の住処には、絶対に行っちゃいけないんだよ。

 ふうん、空って、怖いところなんだね。

 ま、お空なんて逆立ちしたって行けないけどね。


――子供達が教わる、世界の迷信



「うー……――ん」
 伸びやかな背を一層伸ばして、朝の空気を吸い込む。様々な匂いを含んだ豊かな冷気が、胸に広がっていった。
 木の匂い、爽やかな土の湿り気、朝露の冷たさ。
 万事にこだわりを持たない気ままな彼女は、日常の中でもこのありふれた香りを好んだ。
「いい日だ。旅立ちって感じがする」
 彼女にしては珍しく独り言をつぶやくと、細かい睫に囲まれた、澄んだ黒の双眸を見開く。下方に広がる緑の森、微かに見える踏み固められた道すじの遥かな様子を見て彼女は目を細めた。
 風が道の向こうから舞い上がってきて、髪を揺らす。
 ふくらはぎまで伸びた艶やかな黒をふわりと掻き上げ、踊るように軽やかな足取りで彼女は踏み出した。

「やえな!」
 それと同時に届いた青年の声に、顔を見せずに眉を寄せる。
 しかしその声の示す感情の棘を感じ取り、彼女はいかにも渋々といった風で振り返った。
「りとや。……何」
 切れ長で凛とした目つきをすがめると、女性とは思えぬ針のような迫力がりとやを刺す。いつからか鋭敏そうな形に整ってきた眼差しを正面から受け止め、それでもりとやは少しもうろたえなかった。
「本当に、旅に出るっていうのか……?」
 眼もそらさずにりとやは尋ねる。平素と違い低く抑え込まれた声は、彼の本性にお似合いだと、やえなは思った。
「当たり前でしょう。前々からそう言ってた」
 はっきりと平板な彼女の口調からは、煙たがるような険が覗く。ちょうど、年頃の娘が父親を遠ざけるような苛立ちと嫌悪が。
「親との約束は果たした。許可は得たよ。りとやに口出しできる事じゃないでしょ」
 ぽんぽんと彼の抗弁を封じる一言を投げつけ、やえなは髪を翻して道を降り始めた。りとやは一瞬息を忘れて追いかける。
「待て! そんなの、僕が嫌なんだよ!」
「なんで」
「なんでって……なんでも! ほら、危ないだろ! 外にはそりゃいい奴もいるだろうけど、……悪い奴だっているし!」
「それが? 私はりとやのために生まれて生きてるわけじゃない」
「騙されたらどうするんだよ!」
「その時はどうにかできる強さを、親に叩き込んでもらった」
 そう言ってやえなは腰にさした長剣の柄を叩く。刀剣収集癖のある変わり者の彼女の父親を、りとやは改めて苦々しく思った。
「ちょっと待てって! 止まれよ!」
「りとやが止まればいい。私は行くからね」
 歩みを緩めず、むしろ早足になってりとやから離れ去ろうとする長い黒髪、長身の細い背。これが彼女を傷つけるかもしれないと罪悪感を覚えないわけではない。だがりとやは奥歯を噛みしめて叫んだ。
「でも、そうまでして探したいものが空の浮島だなんて、どうかしてる!」
 ぴたりと、黒髪の揺れが止まった。微風に端の一本一本がたなびいているのさえ、見える。
「知らないわけないだろう!? 空の悪魔の話! 古代の大戦で魔族が世界を穢土にした話! その魔族の住処なんか探してどうしようっていうんだよ! まさか魔ほ……」
「それが実話だろうと迷信だろうと、私は構わない」
 真っ黒な髪の向こうの、痩せた横顔とあの強い眼差しがりとやの目を射る。
「ただ、私は行きたい。……それだけ」
 りとやの全身に震えが走った。どうしようも無い力で、今この幼馴染は彼の下を離れようとしている。子供の頃から強い自己主張をしなかった彼女の放つ、初めての主張は奇妙な重力を持ってりとやの胸を引き裂いた。
「それだけのために……外に出るなんて危ないこと……」
「わかってる。でも確かめたい」
 深く傷ついた様子で立ち尽くすりとやの為か、やえなの口調は急に優しくなった。りとやは、その態度の軟化にすがるように言葉を続けた。
「ここにいれば、そんな危ないことしなくて済むのに……」
「ありがとう。でも私はね――」
 その時、何年ぶりかも忘れるほど久しぶりに、りとやはやえなのにっこりと笑う顔を見た。
「生きてるだけじゃ、駄目なんだ」
 瞬間、表れたのは狂いそうな愛おしさと身も斬られるような心の痛み。
 りとやは、立ち尽くしたまま結局彼女を止められなかった。




「りとやの奴。興ざめだよ」
 小言をぶつぶつ吐き出して、やえなは山を降りる。これから長く帰らないであろう故郷を振り返る事なく、獣道のような細い道を滑るように歩く。
 もう一度、歩きながら深く息を吸い込む。瑞々しい春の朝の空気だ。
 常にここの木々と共に時を過ごした。木の露をたたえてしなる葉が、夜風に揺れる枝が好きだった。雨上がりの夕方、夏の温かな夜のあの香りは大好きだった。
 だから、それを思うと本当は少し寂しいのかもしれない。
 でも、これからは禁忌も伝承も昔話も部族も家族でさえ、自分を縛るしがらみなどではない。思う存分、空の浮島を探す事ができるのだ。
 ふふ、とささやかな笑みを漏らすと、やえなは更に歩を速める。風をきって走る彼女を、呼び止める者はもういない。冷涼な空気を受け、体が舞い上がるように気分が高揚するのを彼女は感じた。
 まずは魔法だ。空に島を浮かべる方法なんて、それぐらいしかあり得ない。とにかく、まずは魔法なんだ。禁忌なんて関係ない。そう、自分はこれから自由なのだから。
 蹴りだした踵からぱらりと、土が巻き上がった。


次へ
戻る inserted by FC2 system