彼女が去った山奥の集落にて、乾いた声が静かな朝に染み渡った。
「ねえ、本当にディムに任せて良かったの?」
 妙齢の女の真っ当な問いかけに、声の持ち主よりずっと上にある黒髪の頭がぴくりと反応した。
「あいつでは不足か?」
 意外そうな視線を向ける目は、髪と同じ深い黒。この部族特有の夜の森の色だ。
「いいえ、全く。でもあの子にとって面識のない男の人って、ちょっと心配じゃない?」
「その辺は心配ないだろう。あいつの魔力を感じ取れば、やえなも自然とわかってくる」
「……本当に心配してないのね」
 男親とは思えぬ奔放な方針にゆうはは軽くため息をついた。
「ディムだって、私達の子と知れば手を出すわけあるまいよ」
 薄く皺の寄った口元をくすりと綻ばせ、彼は遠ざかる娘の気配を探る。ゆうはの目には、夫の周りに浮かぶ蛍のような緑の光が頭上に集まり、光の筋となって山道を下り指し示す様まで克明に見えた。もう一度、注意深く周囲を見回して視線を戻した。
 目の前に佇んで人間離れした技を展開する長身痩躯の背中。娘のやえなのか細さは、完全にこの男の遺伝だ。
「りとやには、申し訳がたたないわね」
「恨まれるだろうな」
 娘を陰ながら慕っていた気の良い青年の顔を思い浮かべているのだろうか。飄々と言ってのけるその口調に申し訳なさは微塵も感じられなかったが。
「やっぱりあなた、ディムを推してるんじゃないの?」
 それには答えず、りくえは光の筋を散らしてゆうはを振り返った。
「戻ろう。ここに生まれて以来、久しぶりに力を使ったから疲れた」
 そんな事はあり得ないと知っている。だが、ゆうはは黙って頷いた。
(ディム、……やえなを頼むわよ)
 予想に反して世界の禁忌に惹かれ、挑み、旅立った娘。
 迫害されるようなドジは踏まないと信じているが、彼女は何も知らないのだ。歴史が語る以上に恐ろしく、また素晴らしく強大な悪魔の法を。
 脳裡に浮かべた旧友の顔が、安心させるように微笑んだのをゆうはは確かに感じた。


「すいません、空の浮島を見た事がありますか?」
 と尋ねてまわれれば苦労はしない。
 わかってはいても、こうして麓の大きな街に飛び出してみると少しだけ途方に暮れた。
 この巨大な人の群れを、頼りにしてはいけない。こんなにもたくさんの情報源が転がっているのに、聞いてはならない。それが世界の決まりであり、奔放なやえなでさえも逆らえない厳然とした事実なのだ。
「ふうむ……」
 だから父さんはそういう人を紹介したのだろうか。と旅立つ直前に言われた奇妙な言葉を思い出す。

――ディムグロウスという男がいてな。

 聞き慣れず、長い、故に覚え辛そうだと心が即座に拒否した名前だ。何故今そんな話をするのか、それは一体何者なのかと顔じゅうを疑問符にして呆けたやえなに、父は平生の淡々とした調子で続けた。

――俺の古い友人なんだが、空の浮島など突拍子もない事を本気で考えているなら、まずそいつに会ってみろ。

――見ればわかる。珍しい銀の髪に右目は緑、左目は紫。既にお前が旅に出る事は伝えてあるから、まずこの大陸を出て西のティデール王国という所に入れ。

 一度にそんなに新しい話を覚えられるか、と抗いかけたやえなを制してりくえは言った。
「今は何もわからないだろう。俺達は、お前にはそんな事は必要ないと思って放ってきたんだからな。だが、特段遠ざけるつもりもなかった。だから出立を許した。
 ……遅かれ早かれ、全てわかる時がくる。何故ここを離れた事のないはずの俺が異国の名前を知っているのか、ディムグロウスなんて奴を知っているのか。そして何故こんな事を言うのかもな。
 お前にどこまでいけるか正直わからんが……踏み出した以上は全てを知るまで、立ち止まるな。そしてできれば……いや、なんでもない」

 わけがわからなかった。常に愛想がなくて無口で、笑顔になるのは刀剣を眺める時だけという変わり者の父が、一体何に対してこんなに真剣になっているのか、わからなかった。
 が、父の言葉以上に奇妙なのは、覚えきれないと危ぶんだ話の内容を一字一句違わず自分が記憶していた事だ。記憶力は悪い方ではないが、ずば抜けている方でもない。それなのにあの長い台詞の数々は、今でもこうして諳んじる事さえできるのだ。
「ディムグロウスという男がいてな……」
 不思議な響きだ。柔らかく静かで、春になりかかった冬の朝日が一番ぴったりくるような名前だ。何故初めて聞く異国の人間の名前に、こんな印象を持つのだろう。
「ディム、グロウス……」
 彼女の呟きに、すれ違った男の耳がひくっと跳ねるように動いた。
「おや、意外なところで意外な名前を……」
 やえなより少し低い程度の身長に、がっしりした体格。それに似合わぬ道化のような色彩豊かな衣装。黒く細長い、影のようなやえなの後ろ姿を興味深げに見つめる。
「どういう知り合いかはわかりませんが……ふむ、『素質』は持っているようですね」
 男の独り言にも視線にも気づかず、やえなは街の港へゆらゆらと進んでいく。
「もしや、『彼女』ではありませんかな……?」
 男がきつく目をすがめる。と、所在無さ気に歩いていたやえなの黒い背中ががばりと振り返った。
「……?」
 ただならぬ視線を感じたのに、とやえなは訝ったが、人の波に視線の持ち主らしき人物は見当たらない。端によけ、しばらく道行く人の顔に目を走らせていたがやはり同じだった。やえなはそうして根気強く待ったが、やがて首をひねって港への道を歩き出した。
「気配に敏感、用心深いとくれば、ますます怪しいですな」
 人の間から湧いたように現れた男の視線は、またやえなの細い背中を追っている。


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