「走り込み、行ってきます!」
「ああ、くれぐれも気をつけるんだよ」
「はい!」
 爽やかなやり取りを横目に、やえなは自身の剣を振り降ろす。おかしなほどに平穏な朝だ。
 ディムグロウスの住処は一人分の家具と空間しかないため、レオンハルトは農具をしまっていた小屋に住みこみ、やえなは至って平気な顔で樹上の野宿を選んだ。「さすがにそれは無茶だから近くの街に泊まりなさい」とディムグロウスはとめたが、やえなは木に密着していた方がよく眠れると頑固に断った。彼女の魔気を知っていた師はそれ以上何も言わなかったが、街の大工を呼んで家屋を増築することを約束した。明日には来てくれるという。
 奇妙な三人生活が始まり間もないが、自ら望んだやえなはもとより、元来柔軟なレオンハルトも水が器に満ちるように違和感なく溶けこんでしまった。
 勿論、レオンハルトは最初は当惑した。剣の先生と師事したやえなが、さらに別の人の門下に入ってしまったのだ。
 だが、言い訳に頭を悩ませたやえなを、ディムグロウスは鮮やかに救ってみせた。
「私も多少剣を振るっていた時期がある。彼女はそれを看破したんだ。素晴らしい観察眼だよ」
 感情が表に出にくい自らの性格に、この時は深く感謝した。ディムグロウスが剣士だったことなど、知りもしなかったしその様子すらわからなかった。が、さもその通りと涼しい顔をしてレオンハルトの驚きを眺めるやえなは、誰から見ても優れた観察眼の持ち主だったことだろう。
「だから私がやえなに剣を教える。それからやえなが教わったことをかみ砕いてまた君に伝える。誰かに教えることも学びの一環だから、君たち二人にとって悪い話ではないはずだ。どうだ、ここに残るかい?」
 そうして、当面のやり方は決まったのだった。
 毎日の移動がなくなった分、基礎体力の維持が難しくなったとかレオンハルトは生真面目なことを言っていたようにやえなは思う。走り込みを習慣にとりいれた少年剣士は、以前と変わらずいきなり素振りから入るやえなに片手の挨拶を残し、細い山道を下っていった。
 よくやるものだ。体力を考えたことのない自分は、恵まれているか極限を味わったことがないかのどちらかなのだろう。レオンハルトの愚直さに呆れる一方で、やえなは自らを冷ややかに評している。
 ともあれ、レオンハルトの気配が感じられなくなってから早速やえなはディムグロウスに促した。
「今日のお話は?」
 苦笑して歩み寄ってきた二色の目の先達は、それでも即座に講義を始めてくれた。
「言語と魔法の結びつきは、知っているか?」
 魔法の知識は、順序立てて教えらえるものではない。体系が確立できるほど魔法は広まっていないし、長い間広めるのも危険だったからだ。
 だから、魔法の伝授はその日その日の気分で決められた。
「言葉と、魔法の関係ですか?」
 自分なりに主題を簡単な言葉に言い換えてみたが、しっくりこない。やえなは沈黙して降参を示した。ディムグロウスは楽しそうに微笑して続きを語る。
「言葉と魔法には、昔は切っても切れない結びつきがあったんだ。まず今我々が使っている言語だが、これは魔族たちの間では魔が言葉と呼ばれている」
「まがことば……」
 初めて聞く名前だ。自分たちが話す言語の名前すら、知らなかったなんて。やえなが黙ってしまったのは、生来の無口故ではない。
「当たり前すぎて、名前があるかどうかすら気にしたこともなかっただろう? だがそういう盲点に気づけるようになれば、今後のやえなの強さにつながるだろう。何も魔法に限ったことじゃないがね」
 元々口数の多い気さくなディムグロウスだが、魔法について語ると、さらに饒舌になる。
「魔が言葉は世界共通だ。エクメネのどこに行っても通じるだろう? ……おっと、エクメネも古代の魔族が作った名前なんだが、今は大した話じゃない。
 古代大戦以前は世界各地で様々な民族がそれぞれの言語を話していたが、魔法が発見されてからは徐々に統一の流れが進むようになっていった。何故だろうか?」
「……魔法を使うのに便利な言語が見つかったからですか?」
 すっかり剣を振るう手が止まっているのも指摘せず、ディムグロウスは頷いた。
「一部だけ正解だ。どんな言語でも詠唱すれば魔法は強い効果を伴って発動する。だが、さらに効果を増幅させるのに特に優れた音韻が発見されてな、それを組みあわせて新たに言語が発明された」
「それが、魔が言葉……」
「そうだ」
 このことを、どれだけの人が知っているのだろう。やえなは体内を巡る魔力で異彩を得た瞳でディムグロウスを、正確にはその向こうと周辺に広がる世界を見つめる。人工的につくられた、嘘の秘密と神秘が満ちる世界を。
 やえなとは天地ほどに違う鮮やかなディムグロウスの二色の瞳孔は静かで、面白がるような、悲しむような、どちらにもとれる微笑を揺らめかせている。
 あるかもしれない悲しみがやえなの心から引きずりだしたのか、快くない質問が飛び出した。
「それまで各地で使われていた言語はどうなったんですか?」
 滅ぼされたのか。残酷な予想を察するに、魔力はいらない。ディムグロウスは明言は避けつつ、平坦に答えた。
「そういうことがされた地域もあるだろう。あるいは、自分たちから積極的に魔が言葉を取り入れ、結果として母語を捨てたところも多いだろうな。魔法は……便利だから」
 その恐ろしさを、今なら理解できる。目先の手間を省いて生まれた余白を埋めようと、また別の何かを欲しがる。他の何かを奪い踏みつけ、大切な何かを失い、そのことに気づけなくなる。
 だからといってやえなは動揺などしない。立ち止まらない。この魔力が、つながる空の島に行きたいと全霊を突き動かす。
 楽に生きたくて魔法を知ろうとしているのではない。
「では、魔力をこめて何かを言えば、その通りのことが起こせるようになるんですか?」
 沈みかけたディムグロウスが苦笑と共に声色を改める。
「そうだ。この外ではするなよ? 結界のない外で詠唱なんてしたら、即捕まるぞ」
 頷きかけて、やえなは言葉と魔法の関係に気づいた。今、誰も口に出して魔法を使っていない。
「昔は、声を出さないで使っていたんですか? 今の私たちみたいに」
 知識が与えられるとわかるや、熱心になるのは最早お決まりだった。
「それに答えると歴史の講釈になってくるな」
 ディムグロウスも、何の制約もなく魔法を語れる相手を得られて、心からこの時間を楽しんでいる。滔々と、水が湧き出るように注釈は続く。
「魔法発見最初期は口頭の詠唱が主流だ。口で言葉を発して魔法を使う、それを詠唱と思ってくれ。最初の頃の魔法は念じるだけでも使えるが、成果は弱くてとても使えたものではなかった。
 しかし繁栄期に入ると詠唱なしでのお手軽な使い方が民間に伝わり主流になる。人々が魔気を操る技術を発達させ、詠唱無しでも実用に耐えられる力を使えるようになってきたからな。
 戦争が広まるにつれて魔法の発展は加速された。この時代は書き言葉で強化された術が主流だった。大声でこれから自分が何をするかを敵に向かって叫ぶなんて、間抜けもいいところだからな。物に呪いを書きつけ、発動させる。発動時間も威力も望みのままだったとかな。これで書き言葉が大いに発達したんだ。
 そして今……魔法は禁断の術となったから、詠唱なんて目立つ方法は勿論使えないし、書き残すのも敵対する魔族にばれれば悪用されかねない。現在はさしずめ、念じるだけで発生する魔法をどう効果的に扱うかをみんなが必死に研究している時代といえるね。最初期に戻ったともいえる」
 今度は、すぐに質問が返ってくることはなかった。単純に長いということもあり、小難しく唇を結んだままやえなは顎に手を当てる。
「ちなみに魔が言葉の文字だが、三種類あるよな? 漢字、ひらがな、カタカナと。
 魔法の増幅をもたらす音韻はまとめられ、数十種の音にまで絞りこまれた。だが音が少なければそれを表す文字も当然少なくなる。となると術の多様性が失われてしまう。そこで同じ音を表す複数の文字を作り出し、使う文字によってまったく違う効果をもたらすようにした。それが乱立して収束して、今の三種類になったんだ」
「…………」
「別に自分で作った文字を使ったっていいんだぞ? 効果はしょぼくれてしまうけどな。やっぱり人は馴染みのあるものでないと真価を発揮できないんだろう。長く使われてきた言語も、それ自体が力を持つものだしな」
「…………」
「はは、さすがに頭が破裂するか。今日はこれまでにしよう」
「……はい」
 説明に余談を重ねて遊ぶのも、これくらいにしておかねば。ディムグロウスがそう思い直した頃には、既にやえなは頭痛に苦しむ病人の顔をしていた。かわいそうに思わなくもないが、最後にこれだけは釘をさしておかねばならない。
「言っておくが、何かに書き残そうとするなよ?」
 不自由な世界のため、魔法の歴史は口伝が主だ。暗黙の了解を侵して、やえなが仲間になれるはずの魔族から疎まれる状況は避けねばならない。
「忘れたらまた教えてやるから」
「……覚えておきますよ、その言葉だけは」
 やえなの抜け目のない台詞、そして睨むような凛々しい目にディムグロウスは束の間見入る。まるで見惚れたかのように。
「さ、剣の稽古だ。彼が戻ってきたら怪しまれるぞ」
「教えてもらったことが、飛びそうです……」
「心配するな、一回忘れることが記憶への近道だぞ」
 直後、やえなの額目がけて白銀の光が倒れかかる。
「……!」
 意外そうに眉をあげたやえなの目前で、剣が交差している。
 彼が卓越した剣士であることは本当だ。反応があと少し遅ければ、前髪を半端な長さを残して切り落とされていただろう。
 緑の瞳が、震える剣の向こうから挑戦的に見つめてくる。
「今はこれをレオンハルト君に教えねばならない方を、心配するべきではないかな?」
 ここに留まらせてもらう建前を思い出し、やえなは苦いものを感じつつも四肢に力を込める。格上との稽古は、長らく足止めを食らわされた父との日々を思い出させる。
 軽く飛び退き、ディムグロウスは優雅に剣を横薙ぎに払う。そういえば、あの剣は一体いつ、どこから出したのだろう。
「さあ、久々に思いっきり体を動かすとしよう」
 その後の剣戟は大いに手加減されているのが明らかで、しかし、あと僅かでも実力を出されたら剣を弾かれるのもまた明白で、要するに子ども扱いで手も足も出なかった。
 そんな刺激の強い時間だったにもかかわらず、帰ってきたレオンハルトの驚愕も含めてやえながよく覚えていないのは、直前の講義があまりに頭に重すぎたせいだ。
 翌日、詰め込みの成果は誰にとっても意外な形で現れた。

「な、なんだ?」
 朝の陽ざしに目覚めかけ、うとうとしていたレオンハルトは飛び起きて呟いた。大きな荷物が落ちるような、鈍重な音の正体を気配で探ろうとしていると、短い呻きが聞こえて薄い戸を乱暴に押し開けた。
 木の根元で丸まったやえなは黒い髪が幾筋も体に絡んで、豹とかいう獣が網にかかった姿のように見えた。あり得ない光景に絶句し、我に返ってレオンハルトはうずくまる先生に駆け寄る。
「やえな!? どうしちまったんだよ……!」
 青い顔で膝をつくと、髪を鈍い仕草でかきわけたやえなの朦朧とした目がレオンハルトを見据える。
「あつ、い……」
 考えるまでもない。発熱していた。
「そんな……!」
 この超がつく健康体の丈夫すぎる健脚の持ち主が、何故。しかし慌てるのも一瞬のことで、レオンハルトは意識して深く呼吸すると、必要な処置を記憶から洗い出していく。宿泊客が体調を崩した時の対応なら、何度か経験した。
「ディムグロウスさんを呼んでくる。それから……」
 レオンハルトの指示を待たず、やえなは頷いたのかわからない微かな動きをして目を閉じてしまう。
「これは、やばいのか……!?」
 師の師が住まう家屋に走り、ノックも忘れて扉を押し開ける。
「ディムさん! やえなが……」
 ディムグロウスはやえなの名前を聞いた瞬間に椅子から跳ねるようにして立ちあがった。お茶のポットとカップがテーブルの上で小さな音をたてる。騒ぎを聞いて助力とまではいかなくとも、緊張はしていたらしい。顔は深い憂慮に陰っていた。
「レオンハルト君、こちらへ運んでくれるかい? ……やえな、君の丈夫さに甘えて無理をさせてしまってすまなかった」
 扉を抑えて戸口で二人を迎えるディムグロウスに、地面で座るやえなは弱々しい声で何か言っては首を振り、まだ遠慮を示す。
「いいから、ほら。俺だってこれぐらいできるから……立てるか?」
「……ほんと、こんなこと……」
 熱を出して木から落ちるという、したことのない失敗にもやもやと悪態をつくやえなをレオンハルトが青い顔で支える。
 ディムグロウスも手伝って小屋まで歩かせ、彼の寝台に寝かせるとやえなはひどく疲れたように一つ、大きな息を吐いた。
「どうか女の子扱いを嫌がらないでくれないか。君を弱いなんて思ってはいないが、不死身ではないんだから」
 いたわりというより、苦言や叱責に近い言い方だった。レオンハルトが意外そうに彼を見、それから心配そうにやえなに視線を落とした。
「……い……」
 今は返答の余裕もないようで、やえなが何を言ったか二人には聞き取れなかった。それでもディムグロウスには通じたらしく、ふっと目つきを和らげて肩を上下させた。
「知恵熱を出したね」
「ちえ、で熱が出るんですか?」
 瞬きをするレオンハルトに、ディムグロウスは重たげな苦笑をこぼして頭の後ろをかいた。
 りくえの思念から教えてもらっていたことだが、彼女は小さな集落で暮らしていたから常識や世事に疎い。そんな純朴な頭に面白がって一気に魔法の知識を押しこんだせいで、予想もしない反動を生んでしまった。
「まあ、色々と世の中の講釈を垂れていたのさ」
 適当に誤魔化すと、レオンハルトは深く追求はしなかった。
 解熱に効く草で茶を淹れてやえなに飲ませると、幸いにも代謝の速い体はすぐに熱が下がった。大工たちが来る頃には動けるようになったが、だからといって剣を持って外で鍛錬します、という無謀を認めるわけにはいかない。
「さきほどの話を聞いていなかったのかな?」
 ディムグロウスがゆっくりと、低い声で諭すと、やえなは恐れた風には見えなかったが渋々頷いた。
 結局、レオンハルトが彼女の剣を預かり、無茶をしないよう監視するのを条件にディムグロウスはやえなの工事中の外出を許し、
「木に寄りかかって昼寝でもしていなさい」
 と命じておいた。
 逆らう無意味と無謀を悟ったやえなはぷいと身を翻して森に入ると、小屋から離れた草地を見つけ、まだだるさの残る体を重たげに横たえ、ふて寝でもするかのように堂々と寝転んでしまった。ずっとレオンハルトがついてきて近くにいるにもかかわらず、彼の目の前で眠ろうというのだから、まったくこだわりが無いにも程がある。
「強いのに、なんでこんな危なっかしいんだ……?」
 自分自身に関心の薄い旅の道連れの、長い黒髪と背中に、レオンハルトは生来のお節介を刺激されている自分に気づいた。
「やえなって、自分が疲れてることに気づけないんだな」
 それだけでは足りない気がするが、それも間違いなく彼女の欠点の一つであろうことは確信できた。

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