暗い石の建物の中で一見何気ない話をかわし、その後は馬車に乗りこんで来た道を戻る──もちろん、まったく同じ道は通らない──さすがに日帰りではなかったが、近くの街で姉妹二人が愛想を振りまいていい部屋を三つも取ってくれたおかげで、やえなは生まれて初めてと感嘆するような施設に泊まることができた。
 柔らかすぎる布団での眠りに体じゅうの痛みを覚えつつ起床すれば、次には買い物につきあえ、その次は寄り道して帰ろう、と姉妹はやりたい放題で、宿代をもってくれたことへの恩義は綺麗に消し飛んだ。それでも、二人は始終笑顔だった。
 やっと住居たる屋敷に戻ってきた時にはやえなも肩が下がっていたが、玄関まで送ってほしいと言われて最後の力とばかりにエカルラートにつき従った。馬を撫でて労をねぎらうマンダリーヌと、へとへとのレオンハルトが何か話しているのを背中で聞きながら。
 玄関に着くとエカルラートは少し待ってて、と言い置いて扉の向こうへ消える。磨き抜かれた室内の木の床が窓からの光を鈍く反射し、すぐ扉に阻まれるのを遠くの景色のように眺めた。
「調査につきあってくれてありがとう。これ、私たちの魔気をこめたものよ」
 戻ってきたエカルラートが差し出したのは、小粒のメノウが光る小さな髪留めと、耳たぶを挟んでつけるタイプの耳飾り。咄嗟に手を出して受け取ってしまったが、手のひらを微かに痺れさせる魔気を感じて困惑の視線を返す。
「暗闇を照らすぐらいの光しか出せないけど、便利よ。こっちはリーヌの。肌に直接触れさせれば、相手の感情が読み取れるわ。どちらも一回きりだから大事にね」
「……どうしてそこまで? 貴重なものでは?」
 エカルラートはぱちりと片目を閉じて笑う。マンダリーヌの方がしそうな表情だった。
「特別報酬よ。本当にただお礼がしたいだけだから、変に勘繰らなくて大丈夫。楽しかったもの。妹以外でこんなにおおらかに話ができた人、久しぶりで。リーヌもそう。年の近い男の子と話せて、いつにも増してはしゃいでたわ」
「…………」
 道行、一度の襲撃を退けただけで、撃退もうち一人は雇い主にさせてしまった。建前とはいえ、護衛にしてはおせじにも良いはたらきをしたとは言えない。それでも二人には救いだったのだろう。
 紅色の瞳が微笑ましくやえなの後ろを見つめているのに気づき、視線を追う。レオンハルトと楽しそうに話すマンダリーヌは、別れを先伸ばししたがっているのか、一心にしゃべりつづけている。
「私たち、きっと寂しかったのね」
 さらりと告げられたので、やえなはエカルラートの言葉を聞き間違えたのかと思った。しかし振り向けば、戸口に佇む赤い魔族は確かに寂しげに目を細めている。
「どうして……? 豊かな生活ができて、家族がいて、何も欠けたものなんてないのでは?」
 他に人生を充足させるものがあるかなど、やえなにはわからない。しかし、これだけの暮らしをしていて欠落を覚えるなど、想像もつかない虚空が彼女にはあるらしい。
 美しい魔族は苦笑した。
「知られたらとても生きていけない秘密を抱えているのよ? 自分たちから壁を作らないといけない人生って、窮屈だわ」
 レオンハルトに馬車の馬を任せ、マンダリーヌが近づいてくる。
 会話が聞こえる距離ではなかったのに、聞こえていたかのように自然に話に入ってくる。
「魔法でお父さまの心を少しだけ操っていい生活をさせてもらってるけど、そんなのとっくに普通じゃないでしよ? 私たちね、こんな見た目でも恐ろしい魔族なの」
 ぴょこんと足をそろえて姉の隣に立つ少女は、やはり邪気もなくやえなの黒い目を見ている。
「ディムには感謝しているわ。あの人と暮らすうちに彼の力に影響されて目覚めを迎えて……望んでではなかったけど、ちっとも悪いことなんてなかった。この力、今はないことが考えられない」
「必要なものを作り出して、別の地で新しい暮らしを始めれば……」
 エカルラートもディムグロウスに負けないほど、様々なことに熟達している。それだけの力があるなら、やり直すことだって可能なはずだ。
「いいえ。できない」
 否定はあまりに明白で、速かった。
「……何故ですか」
 その問いにはマンダリーヌが答える。
「多分……怖いから。今だって人を操って、歪めて、自分たちの都合のいいように使ってるんだよ? これ以上何かしたら、目立ちすぎてあいつらに見つかる。ううん、そんなことよりもずっと怖いのは……」
 唐突に口を閉ざした彼女の後を引き取るのは姉。
「なんでもできるって、思ってしまう。自分たちは誰よりも優れているのだと勘違いしてしまう。古代の魔族がそうなったように。それが恐ろしいのね、私たち二人とも」
「そんな風になるようには、思えませんが」
 美しい魔族の姉は救われたように柔く微笑むが、お礼は言わなかった。嬉しい言葉を受け取るには、人はあまりに不安定だ。
「あなたにもいつかわかるわ。便利すぎる力におののく気持ち、誰にも打ち明けられない孤立……今の魔族が抱える苦悩、その他にも色々とね。さ、もうお行きなさい。ディムが帰りを待ってるでしょう。私たち二人は元気にやってると伝えてちょうだいね」
 卒然と背を向けたエカルラートを、やえなは呼び止めなかった。自ら家の中に辞去してしまうのは、別れが惜しくなるのを恐れているからかもしれない。
 残されたマンダリーヌが切なげに微笑む。ついさっきまで姉がしていた表情を彼女がすると、色彩が異なるにも関わらずよく似ていた。
「お姉ちゃん、言ってたでしょ? 寂しかったって。私たちが古代の遺跡にこだわるのは、そういうことなんだと思う。……自分と同じ力を持った昔の人たちがいた証拠に、時々すがりたくてしょうがなくなるの」
 やえなは、活発な橙色の瞳が内包した深みに今になって気づく。この少女も魔族。自ら壁を作らないと生きていられない人だ。
「いつか、魔法が普通のものになるといいね。戦争が起こるよりもっと前の、生活の一部ぐらいの気軽なものに……ううん、いっそ、みんな一斉に目覚めちゃえばいいのにね」
「マンダリーヌ」
 やえなは彼女の名前を呼んだ。そこには自分でも意外な、窘める響きがあった。
 魔法への価値観が変わっていることを知って、やえなは動けなくなる。はじめ、魔法はどうしても焦がれる空の島へ行く必要条件としか思っていなかった。次に、思うことを実現できる奇跡の術と錯覚した。しかし今は。
「冗談だよ! やえな、もう行くんでしょ? ディムさんによろしくね。それと……ありがとうって伝えておいて」
 頷くと、見慣れたいつものマンダリーヌが目の前にいる。
「またいつでも来てね。お姉ちゃんも言ってる。あなたは私たちの大事な友達なんだからって」
「……ありがとうございます」
 やえなはマンダリーヌに、感情がこめられているかはわからないなりに丁寧に頭を下げた。
「またねー!」
 馬を屋敷の使用人に任せて戻ってきたレオンハルトが、既に終わった別れに名残惜しそうな、あるいは勝手に幕引きしたやえなを恨むような視線をよこす。
「もう充分話したでしょ」
「……おう」
 レオンハルトが脇道から合流し、白い敷石の詰まった門までの道を淡々と歩く。その最中にも考えは川のように流れる。
 エカルラートが剣をたしなむのは、敵から妹を守るためなのか。それとも……魔法を捨ててただの人間に戻ろうとしたことが、あったのだろうか。
 そして、手放せなかった。
 あの二人が絢爛な装飾品や化粧道具をそろえるのも、同じ理由なのだろう。魔法の魅力にのみこまれたくないがために、物質にこだわる。ありふれた楽しみに浸かる。二人とも、飾らなくても最初から綺麗なのに。
 マンダリーヌの屈託ない笑顔を思う。しまった耳飾りをこっそりと取り出し、レオンハルトから見えない方の耳につけてみる。簡単な金具は、耳飾りが初めてのやえなの不器用な手に素直に従い、すぐに開いて耳たぶを挟んでくれた。
 あの少女は、人の心を操るのか。
 同質の力を持つ魔族なら、もう一人知っている。声を媒介に操る、人を見下したふざけた男だが侮れない敵だった。やえなも支配されかけたから、あの魔気の恐ろしさがわかる。
 心を操れるとは、人を操れるに等しい。あの危機感の薄さはその全能感が原因なのだろう。達観した物言いができて、姉の下でひっそり暮らせている分、己の危うさを理解しているようであるが、なるほど危なっかしい。
 門番に「ご苦労様です」と形ばかりの挨拶をして遂に庭園を出た時、レオンハルトの礼儀正しい挨拶を契機に思い至った。
 もしやあの時。ずっと馬車の中にいたマンダリーヌは賊を魔法で操り、ハルトの練習相手をさせていたのか。
 人に人を殺めさせる、無邪気な残酷さ。やえな自身言えたものではないが、命に対するあっけらかんとした態度を感じて愕然となる。
 恐ろしい魔族、と自称したからマンダリーヌは自覚していた。それでも止まらない、魔気の行使。
 こうなっちゃ駄目だよ、と苦い笑顔で見つめてくる少女が目に見えるようで、やえなは彼女の矛盾に眼差しを歪めた。

 騒々しい姉妹を離れた二人旅はつつましいものだったが、レオンハルトは意外にもマンダリーヌへの未練を見せなかった。少しでもそんな素振りがあれば「今からでも戻れば?」と勧めてやろうと思っていたから、やえなはその静けさに面食らった。
 からかうためではない。あの二人ならレオンハルトを快く受け入れるだろうし、万一目覚めても上手く誘導してあるべき道に据えてくれそうだと思ったからだ。
 人と比べて改めて知る。人を導くのは、やえなには荷が重い。
 しかし綺麗な少女とどれほど仲良くなっても、レオンハルトには一番が既にいるようだ。焚き火を黙って見つめる彼の横顔を眺め、彼の幼馴染を想像し、確かに別の少女のところに行けとそそのかすのは酷だなと思い直し、その日は数日振りの野宿の眠りを深く味わった。

 ささやかな菜園で何かを採っていた銀髪の頭を見つけ、声を投げた。
「なんであの二人に会わせたんですか?」
 やえながディムグロウスの住まいに戻って発した第一声が、それだった。例の如くレオンハルトはやえなの健脚についていけず、遥か後方をひいひい言いながら歩いているから、聞かれる心配は無用だ。
 挨拶も姉妹の伝言も後回しにしての質問をたしなめることもせず、振り返ったディムグロウスは日の光のように微笑んだ。
「言葉を並べてくどくど聞かせるよりも、実地調査の方がずっと理解が進むからな」
 黙りこみ、やえなは俯く。
「……あの二人に力を与えたことを、むごいと思うか?」
 首を振る。機嫌を損ねたのは、手のひらの上で踊らされたような気がしたからだ。ただ、それも考えがあってのことならと抑えこめるだけの冷静さはあるつもりだ。
「いいえ。あの二人は幸せだと思います。生涯の隠し事ができてしまったとしても、あの笑顔は嘘ではないと……そう感じました」
「なら……進むのか?」
 ディムグロウスの問いはこの後を大きく左右する。そう思わせるだけの真摯な口調だった。やえなは顔をあげて二種類の瞳を見据える。
 魔族は孤独。その実感を得させることこそが、彼がやえなを二人に引き合わせた理由。力を操れることで欲望が暴走し、人として大切な何かが歪むかもしれない。優秀なエカルラートの寂しいの一言、マンダリーヌの冷酷と紙一重の笑顔が証。
 二人と触れあった今のやえなは、ディムグロウスに罪悪感すら覚える。レオンハルトの本を魔法で取ってしまえ、と軽々しく提案した無知を思って。
 それでも。知らぬ間に大きなものを踏みにじってしまうかもしれないとしても、地を這い空に焦がれて生涯を終えたくはない。それだけは変えられないし、変わらない。
「はい。私に……力を教えてください」
「え……!?」
 追いついてきたレオンハルトは、頑固なやえなが頭を下げる光景を目にして絶句した。

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