甲高い音を立てて、レオンハルトの剣が空高く舞った。
「終わり」
 弾き飛ばされたものが地面に帰ってくるのも待たず、やえなの淡白な単語が彼に負けを突きつける。同時に、珍しい形の鞘に包まれた緑の刀身が、レオンハルトの首筋を軽く打った。
 彼の五歩ほど後ろで、急激な弧を描き終わった剣ががしゃりと草の上に叩きつけられる。ああ、後で点検しておかなければ。
「お、おう……ありがとうございました!」
 いつも通りの挨拶を叫び、姿勢を正すレオンハルトを、やえなが一顧だにしなくなって何日目だろうか。
 今日もまた、真摯な御礼を告げるレオンハルトにやえなは視線の欠片もよこさなかった。
「やえな……」
 この街を騒がせる魔族に遭遇してから、彼女の態度が目に見えて硬化している。愛想が無く時折冷たい言い方をする性質は既に理解しているが、露骨に人を無視したり無言のまま稽古を打ち切るような人間でもなかったはずだ。以前の彼女なら、はきはきと礼をとるレオンハルトに「ん」ぐらいの相槌をくれてやっていた。
 それが今や、彼の心配そうな声を無視して自らの鍛練に没頭してしまっている。剣を素早く抜きはらい、その途中でぴたりと止まる。抜きかけた体勢のまま無表情に少しだけ難しそうな色を乗せて、結局刃を収める。
 防御か、もしくは先手を取る練習なんだな、とレオンハルトは不安を一旦収めてその一連の動きを観察した。近頃、彼女とは少し離れた場所で自主練を行う事が多くなったが、今日は熟練の剣士の身の運びを見取って学ぶ事にした。拾った自らの剣を片手に、斜め後ろから気配を絶つつもりで息を潜める。
 鞘走りにはどうしても向かないであろう、真っ直ぐな剣をやえなは自らの腕の延長のように操り瞬時に抜刀する。
 剣が、一人でに飛び出したかのように見えた。
「……すげえ」
 それがどれほど難しい事であるか、剣術をかじる身であるレオンハルトにはよく分かる。やはり、自分より強い者の一人稽古は見るだけでも違う。
――そんなに強いのに、やっぱりあの魔族には勝てなかったんだもんな。
 自分では無理だと言っていたものの、それでも悔しいはずだ。
 事実一太刀も浴びせられずに逃げられたとあっては、旅剣士の名聞にも関わる。追いついてきた人々は、あの悪魔に襲われて生き延びた初めての人だと大いに驚き褒めそやしたが、思えばあの時既にやえなの顔つきは曇り、険しいものになっていた。
 弱いレオンハルトの練習に付き合ってやるほど、やえなは甘くもないし余裕もないのだ。
「…………」
 独学とはいえ、真面目に修行してきたつもりだ。しかし、やえなをここまで育て上げた彼女の父のような、良い師に恵まれたわけではない。これから伸びると信じたい手足も、剣の業も、一向に変化が見えない。
 放り投げられた数本の木の枝が全て、たった一閃で鮮やかに両断されるのをレオンハルトは泣きたい気持ちで眺めた。
「どうすればいいんだよ……」
 このやえなの棘を放つような後姿は、全て自分の拙い剣腕が原因のように思えてくる。ようやく軌道に乗り始めた稽古を諦められ、この魔族の住まう街に放り出されてはと、再び不安に憑りつかれてしまう。そうなっては、未熟な自分などひとたまりもない。
 情けないとわかっていたが、抑えようのない震えが体中にめぐり出した。
 なんと自分は軽率だったのだろう。剣は人を殺すための道具である事を忘れたわけではない。なのに、命の危険を肌で感じたあの夜から、死への恐れが巣食って離れない。強さを追い求める気持ちに少しも変わりはないというのに。
「すごいすごい、旅剣士さん上手ね」
 突然、脇からささやかな拍手と賞讃の言葉が割って入った。
「っ!!」
 柔らかな少女の声音にレオンハルトは不覚にも呆然となったのだが、やえなは息をのんで大きく後ずさる。
「やえな……?」
 その過剰なまでの警戒に、レオンハルトの胸にも自ずと緊張が湧きあがってくる。しかし、改めて目を向けると、そこに立っていたのはどこにでもいるような普通の少女だ。一つに結んだ黒い髪 、宝石のような綺麗な赤を湛えた大きな瞳。純白のブラウスの下にはレースが螺旋を描いて体を巡る長いスカートをはいている。どう見ても平凡な、強いて言えばちょっとだけ見目のいいただの女の子だった。
「あ、……どうも……」
 明るい赤の両目が不意にこちらを見るや、まともに目があった。じろじろと見てしまったのではと気になって、自分でも何を言っていいのかわからないまま頭を下げた。
「ハルト、さがって」
 鞭のような厳しい声と共に、やえなの骨と皮のような手がレオンハルトの腕を強引に引っ張る。
「な、何だよ……」
 苛立ちを隠せない自分の幼さにまた苛立ちが重なるが、やえなは彼の声音など気づいてもいない様子で目の前の少女を睨みつけている。
「あなた、目はどうした?」
「え? 目? 目って……」
 大きな瞳を瞬かせ、少し困ったように眉を傾けて少女は微笑んだ。
「ああ、そう。そうだったね。これはそういうものなの」
 少女は何かに得心したように笑顔を大きくすると、途端に優しげであった口調が軽薄さを帯びた。その変化に、レオンハルトは先程とは違う種類の鼓動を覚える。さあっと、顔から血の気が引いた。
 ようやくこの少女の不自然さに気づいたレオンハルトは、大人しくやえなの真横まで身を引くと一瞬めくばせを送る。
「ハルト、宿に戻ってな」
 いつもの彼なら、なめるなと食ってかかっていただろう。だが、自分の存在が重荷と感じ始めている今、やえなの判断に口を挟むのは得策ではないと彼は考えた。
 そう、思ってしまった。
「……わかったよ」
 気を付けろよ。と暗に示してレオンハルトは一人、街外れの空き地を後にした。くすくす、と少女の無邪気な細い笑みが耳の奥へとはり付いてきて思わず頭を振った。


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