自らに放たれた言葉が、本当に自分へ向けられたものなのか。
 それを把握するのにやえなには数秒の時間が必要だった。
「何ぼーっとしてんの? びっくりする事でもないでしょ?」
 構えもとらずに少女は腰のベルトからナイフを引き抜き、くるくると手の中で回す。
「魔族の……素質……?」
「そう。魔法の素質とも言うけど、どっちも同じなんだってさ。まさかあなた本当に知らないの?」
 少女の口調にいささかの呆れが混じり始める。回していたナイフを軽く投げ上げ、指一本で柄尻を支え、真っ直ぐに立たせる。
「それはおかしいね。だってあなた、もう目覚めてるよ? そのきっかけ、あったんでしょ?」
 器用に指先でバランスをとりながら、わけもない事のように少女はそう続けた。
 何の前触れもなく明かされる、信じがたい事実にやえなは言葉を失うばかりである。
 しかし、彼女の言う事を少しずつのみこみ、理解していくうちに不意に何かにぶつかる感覚に見舞われた。まさに全力で走っていて石の壁にぶつかったとも言える、奇妙な心当たり。
「目覚め……? きっかけが、あった……?」
 そして、素質という単語。
 あと少しで思い出せそうなのに、思い出せない時のもどかしさが彼女の中を駆ける。頭の中のまっさらな白紙に手をのばそうとした瞬間、鉄の棒が突きこまれたかのような激しい頭痛が襲いかかった。
「うっ……」
 頭を掻き毟るがごとくに髪の中へ指を突き立て、首を垂れて小さく呻く。今にもうずくまりそうになったやえなに、黒と赤の目をした少女は大仰な仕草で肩をすくめる。
「あーらら、かわいそうに。記憶を封じられてるんでしょ? 酷い事するね」
「記憶を、封じる……?」
 そんな芸当が人にできるはずがない。なのに、何も思い出せない。確かつい先刻も、魔族の情報を初めてと感じた自分に違和感を覚えたが、それもその芸当の成せるわざだというのか。
「中途半端に目覚めだけ与えて、後は野放し。……なんか聞いてた話と違うけど、魔の匂いは引き合うって事実は百発百中ってわけねぇ」
「ちょっと、さっきから、何を……」
 これが原因かと感じて記憶を探る事は諦めたが、なおも疼痛は収まってはくれない。眼前の敵という差し迫った状況に思い通りにならない体に、やえなはらしくもなく焦りを募らせる。
「見つかったのが運の尽きだと思って、諦めてちょうだい」
 茶目っ気たっぷり、と言えば年頃の少女らしい愛らしさもあっただろう。だがその両手には柄の禍々しく湾曲した、奇妙な短刀が握られている。
 さっきまで、右手に一本だったはず――
 いつの間にと考える暇もなく、少女の黒服が一瞬で肉薄する。
 再度後ろへ跳躍したやえなの、今度は襟を何かが掠めた。刃物ではない。
 だらりと下げたままだった長剣を、やえなはようやく思い出したように体の前へ構える。父との稽古で嫌というほど教わった、流麗に剣先が天を指し示す真っ直ぐな両手持ち。どんな斬撃もこの構えから変幻自在に剣を操り、あらゆる猛攻を受け流す。出立直前には父の剣ですら彼女に届かぬまで完成した技術となった。
 しかし、この時は柔軟な守りと変化するはずだったその構えを少女は一瞥して笑い飛ばした。
「盾にもならないよ!」
 楽しげな声と共に短刀が迫り、火花を散らしてやえなの剣を押し返したと思うや真横から柄が襲来し、か細い手首に手の甲の側からめり込んだ。
「――っ!?」
 破られた。父でも突破できなかった受け流しの構えを、彼女が作り得る最強の防備を、ほとんど一手のうちに。痺れるような激痛が生まれるが、容易く間合いに侵入された衝撃の方がやえなには余程大きかった。
 素早く手を払って柄を流し、左側から迫る刃を刀身で受け止める。
「ぐっ……」
 一人でに力が抜けてしまいそうな、嫌な痛みが右手首に走るが構っていられなかった。角度と捻りを交えて弾き返すと、すうっと長い新緑色の刃を真横に、柄尻を少女の側へ。柄で殴られたのなら同じように。そう算段を立てたやえなの突きは鈍い音を立てて少女の顎へ命中した。
「ああっ……?」
 直後、僅かに身を沈めたやえなのうなじを目がけた少女のもう一刀が、瞬時に力を失くす。それでもと重力に抗った軌跡は、やえなの骨ばった肩と二の腕を浅く裂いた。
 気の抜けた声を出してふらふらと後ずさった少女に、追撃は仕掛けない。手ごたえは十分あった。口の中は切ったであろうし軽く脳震盪も起こしたかもしれない。それでも、そのふらつきが見せかけである事はやえなにはよく分かっていた。
「殺すつもりでは、ない……?」
 しつこく痛みを訴える頭と打たれた手首に顔をしかめ、やえなはささやくようにして問いかける。
「最初の一瞬は、ね……。でもなかなかできるから、つい本気で殺そうとしちゃった」
 変わらず軽い調子で答えるその瞳に、既に笑みはない。
「本当は殺しちゃ駄目なのにね。あなたが思ってたよりあんまり強いから……」
 左右の色の違う目で睨まれると、顔の半分ずつで表情が変わってみえるために感情がつかみにくい。黒の虹彩には恨みがましさがあるようにも見えるし、赤の虹彩には殺意がたぎっているようにも見える。もしや両方が彼女の本心なのだろうか。それとも全く違う感情に本心はあるのか。
 ふと、少女が猫の跳躍のように腰を屈める。
 来るか、と痛む利き手を使って剣を握りしめたやえなの目の前から、その姿が嘘のように消え失せる。
 しかし彼女には見えていた。頭上から糸で引っ張られたように、少女の体が真上に跳んでいったのが。
「な……」
 人間離れしていると知ってはいても、二十歩ほど横に離れた三階建ての建物の屋根に一っ跳びで飛び乗ったのだ。その動作を見れば、やえなでなくとも絶句していただろう。
「やえなー!」
 目の前に集中していた神経が、その一声で解き放たれて散開する。地図に火が燃え広がるように、やえなの周囲が音に溢れていった。
 レオンハルトの声、その後ろから続く魔族討伐の騎士達の大勢の足音。我に返って建物の窓に視線を注ぐと、凍えるようにして縮こまってこちらをみていた住人か旅人かが、さっと窓の隅へと身を隠してしまった。
 危なかった。
 緩慢に少女の方へ目を向けた時、その幼げな顔が若干悔しそうに見えたのは幻ではないだろう。 ぷいっと首を振ってそっぽを向くや、その姿は夜の色へと溶け込んでいった。
 危なかった。
 同じ声を胸の内で繰り返して、やえなは今更ながら自分が冷や汗にまみれている事を知った。
 自分の一番の守りを破られ、利き手を殴られ、それでも殴り返せたのはまぐれの奇跡に近かったのだ。
 自分を過信していたのではない。誓って傲慢に溺れていたのでもない。それでも、あのわが目を疑うような父の剣腕を凌いだという自負は、確かにやえなの中に根付いていた。それを根こそぎ奪われた。何より、
「あの子は、一体何……?」
 そして素質という言葉の意味、曖昧なままの自分の記憶、頭痛。
 考える事が多すぎた。混乱の真っただ中に放り込まれたやえなは、その時ただ呆然と屋根の上を見つめるより他なかった。


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