ここ数日レオンハルトが何かに気をもんでいる事を、やえなはきちんと見抜いていた。だが、それが何なのかは当然わからず、また、取り立てて聞き出そうとも思わなかった。だから放っておいただけの事だ。
 しかし、この危険な少女を前にしてレオンハルトに帰れと言った途端、素直に従ったのには嫌な予感を覚えた。
 これは放っておいていい予感ではない。そう思って呼び止めようとした瞬間、喉に微かな痛みが走った。

「…………今度は確実に殺したいって?」
 レオンハルトが遠くに去ってから、やえなはささやくような声で少女に尋ねる。持ち上げられた少女の指先には、糸のように細い白銀の針。やえなの首を突く直前でぴたりと静止している。一夜寝ただけで治った手首の痛みが、唐突に蘇った。
 顔に出さずに、やえなは相手の意図を探ろうと努めた。微笑みを貼り付かせたまま、少女は瞬き以外の動きを何一つ見せないのだ。命が目的なら、諦めるしかない。
「ううん。ちょっと話がしたいなって思っただけ。これはあの子を呼ばれたら面倒くさいから」
 少女が腕を翻すと、その時には既に凶器はどこかへと消え失せている。投げ捨てたのでもないのに、正に消失してしまった。
「大丈夫だよ。毒なんて仕込んでないから」
 不意を突かれたせいで渋い顔をするやえなに、少女は変わらず軽い調子で笑いかける。その邪気の無さそうな声音も、彼女にはかえって油断ならないものに映った。
「本当だって。何ともないでしょ? それより、私に色々聞きたい事があるんじゃないの?」
「…………」
 この言葉は願ってもない展開ではあるが、やえなは一瞬ためらう。
 しかしここで逃走を試みれば少女は自分への興味を失くし、たちどころに殺気を剥きだして背中を斬り裂くだろう。読めない事ばかりの少女ではあったが、これだけは手に取るように明らかだった。このような気まぐれに輪をかけたような性分の人間は、気分に流されるままに人を葬って悔やみもしないのだ。自身がそうであるだけに、その危うさは十二分に承知していた。
 機嫌を損ねては、いけない。
「素質とは?」
 素直に疑問をぶつけつつ、一瞬で相手を剣閃に巻き込む用意は怠らない。手の痛みはどういうわけか、何ごともなかったかのようにひいている。それでも少女は無邪気な笑みを浮かべたままだった。
「わかってないような顔だったもんね。それはね、誰もが持ってる力なの」


 見知らぬ街を見て回る方向には、彼女の好奇心は働かないらしい。エスディアの地に到着した時、あまりに淡々と先を急ぐやえなの背中に驚いたものだが、この不思議な色合いに染められた街にも彼女はてんで関心を持たないのだった。
「勿体無いよなあ……」
 レオンハルトは手持無沙汰に煉瓦の道をぶらつきながら、ぽつりと小言を吐いた。恐らく、彼女はディアローゼというこの街の名前すら知らない。未知の風景、新しいものに強く惹かれる性格のレオンハルトには理解し難い無関心さだった。
 広々と幅をとられた歩きやすい道、地面から建物の屋上までを覆う濃い赤味の煉瓦。その建物一つ一つが角、扉、窓枠と至る所に蔦や木の葉の模様を彫りつけられている。芸術にはとんちんかんなレオンハルトでも、綺麗だと素直に思える繊細な技巧だ。それが全ての家屋にある。刻む労力の大きさを思うと、改めて圧倒させられる。
 なのにきっと、やえなはそうした人の力の神秘に目を向ける事は一切しないのだろう。ともすれば、この街とトロンヘイムの区別すらつけていないのではと思えてくる。
 あれで一体どうやって旅を続けてきたのか。根本として、彼女が興味を覚える対象が剣を除きこの世に存在するのか。剣にばかりのめり込んでいては旅剣士として食べていくなどできない事は、レオンハルトにもわかる。
「ん?」
 そもそもと言えばそもそも、だ。
 やえなは旅剣士の仕事をした事があったか? 路銀を父から渡されたから当分は働かなくていい、と言っていたが、その父がそもそも怪しい。彼女をあれほどの強者に育て上げておきながら、忌み嫌われる魔族に会えなどと常識外れな指導をする。剣士の修行と魔族、一体何の繋がりがあるのか。
 遅まきながら、レオンハルトは初めてやえなに対して不安を覚えた。本当に剣士なのか? 一体どんな環境で育ったのか? 何の目的があってその魔族に会いに行く?
 赤い土くれを靴底でならし、レオンハルトは戻ってきた道を振り返った。稽古をつけていない時のやえなは、いつも通りの散漫な彼女だ。棘を発してなどいない。尋ねるのならいつでも構わないはずだ。例え、それが今でも。
「あの子の事も、気になるしな……」
 それは誓って、どきりとしたからではない。やえなの異常な警戒が気がかりだったのだ。そう自分に言い訳すると同時に、レオンハルトの足は忙しなくその方へ動き出した。


「誰もが、魔法の素質を持っている?」
 姿勢を低めに保ち、手を柄にかけたままでいるのは見た目以上に疲れるものだ。今、彼女はそれを改めて思い知る。
「そう、この世界の全ての人間が、目覚める資格をもっているの」
 赤い樹液のような目を煌めかせ、少女は両手を広げて小さく首を傾げる。言っている内容が世界の土台を揺るがしかねないものであるだけに、振る舞いとの溝が極端に見える。もっとも、彼女が現れてから落差が激しくない瞬間などなかったのだが。
「そんな……それを、どうして簡単に話すの? あ……あなたは魔族なのでは?」
 生まれ育った土地でも魔法は禁忌である事を叩きこまれ、古代大戦の伝説に至っては耳が腐るほど聞かされてきた教訓だ。故郷を飛び出した時には、冗談でもその名称を口にすれば白眼視を避けられない空気を肌で感じた。その世界が、魔法など片鱗も存在を許さないと恐れる人々が、残さずその素質を持っているなど信じられる話ではない。
 あれほど魔法の存在を確信していたにも関わらず、やえなは自分でも驚くほど慎重になっていた。この少女の底知れぬ雰囲気が、現実味を奪っているからだろうか。
「ふふ、思い通りに動揺してくれると私も話しがいがあるよ。でも本当だよ。だって私もあなたと同じように、魔法なんてあるわけないって思いこんでた、ただの人間だったんだもの。
 見て! この目……ぞくっとしない!?」
 言うなり、少女は笑顔をつくったまま目を大きく見開いた。大きな瞳の中に浮かぶ色合いが炎のようにぐらぐらと揺らめき、影をつくり、夕日色のような明かりを生み出す。火事の現場を、宿のガラス窓から覗けばこのような光景が見られるかもしれない。
 その揺らぎが消えると、少女の片目は夜よりも真っ黒な禍々しい色に変貌していた。新月の日の木陰よりも、雨上がりの濡れた樹皮よりも、遥かに黒い不自然なほどの黒。
「ただの人間がこんな事できるわけないでしょ? これは私が自分の魔力を解放した時の証。この目で見つめられた人間は、恐怖に凍り身動きがとれなくなる。声も出せなくなる。私はそこを仕留めるの。……って、殺してないんだけどね」
 レオンハルトが恐れたのは彼女が放つその魔力のせいだったのだ。納得したやえなは、冷静さを自分に言いつけて静かに質問を続けた。
「私はその目を見ても何ともない。それは目覚めているから?」
「そ。多分目覚めた魔力で私の恐怖を呼び起こす魔法を打ち消してるんだよ。ま、目覚めの瞬間の記憶、消されてるけどね。何故かは知らない」
 頭痛の気配を感じ取ったやえなは、その話を避けて、違う角度からの問いをぶつけた。
「魔法はそんな事もできるの? 無意識でも?」
「無意識でも発動するものはいくらでもあるよ。んーあとそれと、基本的にできない事の方が少ないぐらいだって言われてる」
「言われてる?」
「だから、誰でもできるって事は既に魔法ができる人がいるって事だよ。私が何も無しにいきなり目覚めたと思ってるの?」
 やえなは呆然となった。全て嘘だと断じてしまえればどれほど容易い事か。しかし目の前で魔法の変化を見せられては、少女の言葉を否定する術などないように思えた。
 だが、真実なのだと受け入れてしまった途端、彼女の胸に微かな喜びが芽生えた。子供の頃から憧れ、追い求め、あると信じてきた禁忌。その存在を証明する人物が、目の前にいる。つい先ほどまで断言できなかった不可思議な力、それは実在したのだ。
 水が低い所へ滝となって落ちるように、世界の誠のようにその事実は胸の内へ落ちていった。
「そう……世界には、魔族が案外たくさんいるものなんだ……」
「え、あれ? 魔力の気配が膨れ上がってる……?」
 やえなは少女の珍しいうろたえにも気づかない。幼少に夢見た浮島への希望の種が思わぬ形で芽生え、胸の中で魔法という慈雨を受けて芽を出したのだ。その時のやえなにとって視覚など、あってないようなものだった。
「感情で強化されてる……? ちょっとあなた、何者?」
 既に赤に戻った少女の双眸に覗きこまれる。やえなは答える前に、大きく深呼吸をして心拍数を整え、そうしてようやく声を出す事ができた。
「ただの旅剣士だよ、人探しの仕事のある」


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