「ハルト!」
 微かな、しかしやえなには珍しい激しい調子でその名を呼ぶ。
 空気を切り裂いて突進してくる愛刀を視界の端でとらえ、見もせずに片手で受け取る。
「あっ……」
 切迫していた少女も、気づかなかったらしい。苛立たしげな声を上げて、剣を投げたレオンハルトに向き直った。
 がたがたとおかしなほどに笑っている両膝、恐怖と緊張に引きつった顔、投げた姿勢そのままで固まっている腕、全身が無防備そのものであった。
「邪魔よ!」
 怒鳴ると同時に少女が地面を蹴る。しかしやえなの動きがそれより瞬く間の分速かった。
「悪いね」
 冷やかに言い放たれた一言をレオンハルトが聞き取った瞬間、やえなと少女の間に黒い飛沫が上がった。
「えっ……?」
 レオンハルトは見ていた。ついさっき目を惹かれた少女の顔に、自分と同じ驚きが浮かぶのを。その呆然とした顔の後ろで、振り上げられたやえなの異様に長い腕の形を。
 その腕が途中から剣の刀身になっている事を、単に剣を握っているだけだという事を理解した途端、急に時間が戻ってきたように全てが動き出した。
「うあっ……!」
 顔に似つかわしくない呻きと共に、少女が草の只中へ突っ伏す。その表情は既に驚愕ではなく、苦痛に満ちている。自分の足元まで二、三滴と飛んできた黒い水は、実は赤い色をしていたのだとわかってレオンハルトは蒼白になった。
「あ……」
 斬った。
「何ぼーっとしてるの、大丈夫なの?」
 この声に感情が乗っている貴重さに、感動を覚える余裕などなかった。遅れてやってきた錆びた匂いのせいで、レオンハルトの胸に煙のような吐き気が充満した。
「今のは助かったけど、すぐ動かなかったのは本当に危なかったね。死なれたら夢見が悪いって言ったでしょ?」
 その物言いは、毎朝の稽古の後に彼女がしてくれる反省点の指摘と何ら変わらない。数日忘れていた習慣を突如呼び起こされたのだが、それはたった今目の前で起きた事件とは不釣り合いな、あまりにも日常的な口調だ。彼女の普通過ぎるその声調に、レオンハルトはかえって眩暈を覚えた。
 手の甲で口を抑えながら、血の気の引いた震える足でよろよろと後ずさり、彼は乾いた喉でか細い声を出す。
「そ、その子……」
「魔族だよ。めでたく討ち取ったわけだね。でもちょっと面倒になった。色々踏み込み過ぎた」
 後半になるにつれ意味がのみこめなくなる言葉を呟いて、やえなは剣をしまい片膝をつく。
 片方が変色した瞳でやえなを見上げる、禍々しい少女がそこにいた。一方が黒になると、本来の赤の虹彩も綺麗だと思ったのが嘘のようにおぞましいものに映った。
 少女の白い服の背中に、斜めに走る大きな裂け目が広がっている。傷を埋めてなお留まらぬ鮮烈な色は薄い背を赤い池に変え、それでも収まらずにまだ噴き出し続けている。レオンハルトはかすかに目を背けた。
「いきなりあんなお願いされても、あなたの苦しみなんて私にはわかりません。だから協力なんてできません」
 脂汗の浮かぶ少女の額を気にした風もなく、やえなは艶やかな少女の黒髪を根本から引っ張り上げた。
「お、おい……!」
 容赦のない仕打ちに少しだけ動く気力を思い出したレオンハルトは、ふとそこで硬直した。
 少女の外見に同情を覚えそうになったが、この娘の正体は魔族なのだ。古代の大戦において悪魔の法を振るい、人を殺戮した生き物。現代の人の生活に紛れ、殺しさえ働いた生き物。
 これぐらいの打擲で、やえなが罪に問われるだろうか。むしろこの少女がした事の方がずっと罪深いのではないか。
 戸惑いの中に冷たささえうかがえる顔になったレオンハルトを一瞬、やえなは見上げるがすぐに明後日の方向に首をめぐらせた。彼を見たやえなの視線に少しだけ探るような意図が浮かんだが、レオンハルトは詮索するより先に彼女の目の先を追った。
 朝の散歩に出歩いていたらしい、老年の夫婦が見えた。互いの腕を絡ませた二人の顔には当然、今にも叫び出しそうな恐怖が張り付いている。
 やえなは髪をつかんだ少女の顔を彼らの方に向けさせ、これもまた珍しい大きな声で言った。
「魔族です! この女は例の魔族! 人を呼んでください!」
 彼女のあまり通らない声でも、叫びの内容はきちんと伝わったらしい。転がるようにして、しかしぴったりと体を寄せ合って走り去る二人の姿は、遠目であった事もありすぐに見えなくなった。
「…………」
 柔らかな木漏れ日が、彼らのいた場所に音も無く降り注いでいる。ぴんと張った糸のような黄金の筋は、それまでの緊迫した空気とは何の関わりもなく存在し、事が始まる前から終わった今まで変わる事なく降り続けていたのだろう。
 突然、気が抜けたレオンハルトはのどかな街外れの風景に見入っていた。
「だから、ぼーっとしないで。行くよ」
 しかし、終わったと言える状況でもなかったようだ。乾いた音がした方に目をやると、気絶したらしい少女の頭をやえなが離して草に沈めた瞬間が見えた。
「行くって、どこに……。ここで人がくるのを待ちながら魔族を見張るのが筋じゃないのか?」
 そう言ったレオンハルトに、やえなは心底呆れた目をよこした。
「全く、知らない人はいいね……。このままここにいたら根掘り葉掘り聞かれるんでしょ? そんなの面倒くさい」
 もう、剣を持っていようといまいと、その口ぶりと視線は以前のやえなそのものだった。


「おばさん、今日俺達ここ出るから! ありがと……」
「ハルト、いいから」
 何かから逃げる者のように先を急ぐやえなに引きずられ、レオンハルトは宿の主人に顔つきだけで謝った。建物を出て、人通りの増えてきた大通りを引っ張られるままに大股で歩く。
「おい、何そんなに急いでるんだよ? そんなに嫌なのか?」
「……こっち」
 言いながらやえなは不自然な方向転換をして、二人揃って建物の隙間に滑り込む。
 こんなにも焦るほど、人から何かを調べられるのが怖いというのか。疑問に思ったレオンハルトは鎌をかけるつもりでまっとうな事を尋ねた。
「確かにやえなはあの魔族と二人で話してたけど、最後はやっつけたじゃないか。怪しいところなんて無いだろ。俺がちゃんと証言してやるよ。何が嫌でこんな逃げるような真似してるんだ?」
「…………」
 固い沈黙に、レオンハルトの中にやえなへの疑念がよみがえってくる。先程の彼女の危機に消し飛ばされてしまった疑惑だが、一度復活してしまうと、もう拭い去る事はできなかった。
 旅剣士として大陸を渡る身分なら、これほどの手柄を立てておいて捨て置くなどできるはずがない。
「あの魔族を倒したんだぞ? お手柄、放り出していいのかよ。それとも、そんなに聞かれたくない事情があるのかよ」
「ハルトはちやほやされたい?」
 そう答えたやえなの肩に苛立ちのような険が立ち上った気がして、レオンハルトはそれきり押し黙った。図星だ、何か痛いところがある、と直感したのだ。分かりづらいやえなの態度でも、今の彼ならかなり見破れるようになっている。共に旅をした時間は伊達ではないのだ。
 しかし、やえなは彼を引っ張ったまま無言で街道を進む。走りに走らされたレオンハルトが立ち止まる事を許されたのは、赤味のある煉瓦の街が見えなくなるほど離れた森の中だった。
「うへえ、何なんだよ……」
 疲れ果て、いつかと同じように木の根元に座り込むレオンハルトを、やえなはいつもの無表情で見下ろした。
「変な邪魔は入ったけど、前言った通り、例の人探しに行く。あと少ししたら、また先に進むよ。でも今日は早めに休むから」
 簡素、明瞭。そのために一切の私情を許さない鉄壁すら思わせてしまうやえなの話し方が、この時レオンハルトの燻り続けていた疑惑に火種を投げ込んだ。
 何故一貫して素性を話さない。何故魔族に嫌悪を示さない。何故旅剣士としての名誉に興味を持たない。何故詰問を避ける。何故逃げるようにして街を離れた。『何故』が、溢れ出してとまらない。
 彼女に初めて見せる強張った目つきをして、彼はがばりと立ち上がった。疲労など、今の彼には何の事もない。
「やえな。正直に答えろ」
 レオンハルトの敵意すら感じられる様子に、やえなは何も変化を示さない。黙って続く言葉を待っている。
 彼は酷くためらった。これを言ってしまえば、海をまたいで共にきたやえなとの縁は切れてしまうと思ったのだ。しかしその疑いは、無視してしまうにはレオンハルトには重過ぎた。
「あんた、何者だ?」
 まだ明るい森の空気が、さっと硬度を持ち始めた。


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