不覚だった。意識は朦朧としているのに、背中の傷だけは怒りを覚えるほどに痛い。
「ぅ……」
 ようやく周囲の状況がわかるようになった頃、彼女は枷に繋がれた両腕で上体を持ち上げる。
 予想通り、背中に激痛。さすがに鎮痛剤までくれるほど親切ではないようだ。
 少女は身を起こす事を諦めてもう一度、目だけをめぐらせる。
 そこは石造りの小さな部屋だった。かすかな風の通りが感じられるので、地下に掘られたものではない事がわかる。蝋燭の一つも灯らない石壁は、このような場所への固定観念とは裏腹に、随分と綺麗な正方形を敷き詰めて作られている。自分がうつ伏せに寝ている寝台はかなり古く簡素なもののようで、板の薄さが動かなくても感じ取れた。毛布などの寝具は新しいもののようだが、生地が薄く夜風からの防備には心もとない。
 夜だ、という事は大分前からわかっていた。深い夜のさ中である事も。弱い月の光から、気を失った朝と同じ日だと推測できた。
 しかし時間帯よりもはっきりと実感できたのは、ここが牢獄であるという事だ。
 どうなるだろうかと予想していた捕縛の瞬間は、斬られ眠りこけている間に静かに終わってしまったのだ。なんとあっけない。なんと拍子抜けな。つまらない。
 前触れもなく、傷が風にしみて少女は毛布を両手で握りしめた。
「あの……」
 その原因となった旅の女剣士を罵ろうとして、少女はふと言葉に詰まった。
 ただ女と称するには、色気の欠片もなかった。男女と呼ばわるには、雄々しさも足りない気がする。目つきが悪いから悪人面と吐き捨ててやろうかとも思ったが、それはあまりにも幼稚だ。
 極端に走らず、中庸からはみ出ない容姿。鋭く強いようでいて、結局印象の薄いただの人間に落ち着いてしまう平凡さ。それを的確に嘲笑する言葉を、彼女は知らない。
「あの、枯れ木女……」
 結局、少女が吐いたのはそのか細い身体つきを揶揄する、平凡な悪口だ。
 だが、女であれば、特に体に自意識過剰になりがちな少女くらいの年頃の女であれば、ああいう流線型は正に渇望してやまないものである事も彼女は自覚している。
「くっそ……」
 せっかくスカウトしてやろうと思ったのに。そのために持てる情報を全て打ち明けてやったというのに。尊大な悪態をついて少女は寝台に額をこすりつける。それにもすぐに飽きて、しばらくぐったりと毛羽立った布に顔を埋めていた。
 多少の苛立ちはあるが、やはり自業自得とも言える事を彼女は認めていた。その自業が、一体どこから始まったものかはさすがに認めたくはないが。
 傷自体が脈動するような、嫌な痛みに押し潰されそうになりながら少女は目を閉じて思考に没頭する。
 絶対に、誰にも明かしてはならない。
 そう固く口止めされていた魔法の話。あれが全ての仕組みではないにしろ、自分は相当な情報を漏らしてやったはずだ。それを思うと、ざまあみろと笑ってやりたくなる愉快さが込み上げる。笑うと背中が痛いので本当に笑いはしないのだが。
 秘密をばらすのは、重大な反抗をしているようで実に楽しかった。自分の自由を奪う魔族の男に一矢報いてやったようで、それが快感で、聞かれるままに何でも喋ってやった。
 しかし、誰にも話してほしくないのなら、何故そんな話を自分にしたのだろう。
 する事もなく、考えにふけっていた彼女の頭は冷徹だった。そして、それまで思いもしなかった事に気づき、自分に力を与えた魔族の底知れぬ本意にぞっとなった。
 まさか、自分が秘密をばらす事も見越して魔法の存在を明かしたのか。そして少女が反抗に転じようとした時、絶対に単独では挑んでこない事も彼は見抜いていたとしたら。
「誰か……誰か、いないの」
 強大な人外の力を得てもなお、いやだからこそ彼女にとってあの男は恐ろしい。途轍もない野望を持ち、そのために少女を利用しこの街に縛りつけた悪魔。本心を悟ってしまった瞬間、長らく忘れていた不安に揺さぶられて少女は再び腕をつく。
 背中が軋むように痛み、焼けるような熱が急速に広がっていくが、落ち着いてなどいられなかった。
 両手首をぐるりと囲み自由を奪う重い枷が忌々しいが、少女にはそれよりももっと唾棄すべき束縛が絡みついていた。
 この街から、出られないという呪いが。
 それでも、ここで死ぬのは嫌だった。踏み潰され身も心も打ち砕かれてきた彼女が、全てを壊して手に入れた自由。こんなところで罪人として刑死などするつもりはないし、身勝手な魔族に捻り潰されるのはもっと嫌だ。動かぬ体を引きずり、少女は苦しげに荒い呼吸を繰り返してなんとか立ち上がろうともがく。
「ここにいるが」
 突如現れた男の声に、またしても意識が遠のいていた事を認識し、そして飛び上がった。
「な、によ……いきなり……」
 どんな魔法を使ったのかは知らないが、この男の人間ではない力をもってすれば簡単な事なのかもしれない。
「かつて国一の騎士となると称えられた娘が、ああも簡単に背中をとられるとは無様だな。だがあの太刀筋では反応もし辛かっただろう」
「……?」
 その声が、彼女が予想していた人物のものではない事に気づいて少女は暗闇に目を凝らした。彼女に比類なき力を与えた男でないとすれば、その仲間が来たのだろうか。
「あいつの転送の魔術も利かないほど覚醒した地上のものは初めてだったな。血から波動を辿ると、例のちんどん屋崩れの魔力も感じ取れた。実にいい戦果だな。魔法の秘密を話した事など、この証拠に比べれば些細なものだ」
 男が手にしているのは、彼女が倒れるまで手にしていた魔族の剣。その刃が吸った血は、これまででどれほどになっただろう。考えようとして、その仮定の下らなさに興味を失った少女は無言で目を閉じた。
 せせら笑う、冷たい声が石の部屋に短く響いた。
「観念したのか? 感心な態度だが、もうお前に我々が期待する事はない。大人しく死罪を受け入れるなり逃げるなり、好きにすればいい。この街の呪いに関しては、私の知るところではないがな……」
 裏切りを咎め、殺しにきたのだとばかり思っていた少女は大きく目を開いた。鉄格子の向こうに、塗り潰されたように真っ黒な人影が佇んでいる。背が高く、すらりとした線が見て取れた。
 こんな状態でなければ、少しは目の保養にもなったのに。
 ろくでもない事を心でぼやいているうちに、その人影は周りの影に同化して消え去ってしまった。
「……どうしよ」
 魔力に目覚めてから、傷の治りは異常に速い。そういう目覚めを促したから、だとか言われた。今はうずくような背中も、日の出までにはほとんどふさがってしまうだろう。
 どうしよう、などと言ってみたものの、少女の答えは決まっていた。
「逃げちゃえ」
 呟くやいなや、少女は安っぽい寝台に身を放り出した。


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