「この国のどこにいるかは知ってるから、後は歩くだけだよ」
「おう」
 答えるレオンハルトに、やえなの視線がじっと注がれる。
「何だよ?」
「いや、別に……何かいい事でもあったの?」
「別に? あったとしてもあんたには話したくないな」
「何を笑ってるの……? この前はいきなり泣き出したくせに」
「う、うるさいな!」
 砂のような軽い色の髪をなびかせ、レオンハルトはむすっとしてやえなを追い越し、先を歩く。爽やかな昼前の風が首筋に心地よい。
 泣いた事を指摘されたのは痛いが、やえなが茶々を入れるような言い回しをしてくれた事が、レオンハルトには純粋に嬉しかった。


「ハルトはね、りとやに似てるんだよ」
 涙を流したレオンハルトが落ち着いてからの事だった。
 どういう調子で言おうか、決めかねているような抑揚でやえなは言った。
「私の故郷にいた男の幼馴染なんだけど、とにかく口うるさい。過干渉でいつもイライラさせられてた」
 気に入らない人間に似ていると言われて、レオンハルトは黙り込んだ。
「でもね、泣く時は全然違うんだよ。りとやは無言でどっか行って、それで一人で声をこらえて泣く。ハルトは堂々と泣くんだね」
「それを言うなっ!」
「からかおうとしてるんじゃなくて、むしろその違いで何かが開けたんだよ。ハルトとりとやは違うんだって」
 再び黙り込むレオンハルトを、やえなは遠くを見るような目で見据える。
「今だって私も取り乱したと思うし、おあいこってやつじゃないの」
 彼女が唐突に背中を向けると、その長身は真っ黒な髪の色に覆われた。捌く時の邪魔になるに違いない長髪にも関わらず、やえなの剣はいつでも鋭敏で軽やかで、強かった。
 急激にその黒い色が遠ざかっていく事に気がついたレオンハルトは、ようやく話を打ち切られたのだと悟る。
 待てよ、と大声で呼ばわってから立ち上がり、駆け出した。


 その後も例のりとやという青年について尋ねてみると、何の反発もなく教えてもらえたのにはレオンハルトも驚いた。自分の周辺を語りたがらないタイプだと思っていたのだが、それは彼の遠慮がきき過ぎた偏見だったようだ。しかしその内容の激しさに、レオンハルトはすぐに閉口した。
 いわく、何故一人で狩りに出るのか、と責められた事がある。狼の群れにでも遭遇したらどうするのか、獣でなくても賊が襲いかかってきたらどうするのか、と無駄に長い台詞でまくしたてられた。
 いわく、弓矢が不得手だからといって剣一本で出かけるのも良くない、と余計なお世話を口にする。なら剣で自分に勝ってみろ、と言ったら青くなって逃げた、とも。
 更にいわく、空ばかり見つめて不吉な事をするな、と身に覚えのない叱り方をする。
 気がつけば回答は愚痴の羅列になっており、それでも変わらずやえなの口調は平坦だ。しかし、あんなに口の固かった出自を話してくれているのだ。
「それにしても、過保護だったんだな、そのりとやって人」
「過保護というか、鬱陶しいだけ」
 当り障りのない相槌を打つと、またしてもやえなは容赦なく幼馴染を切り捨てる。その人間味が真新しく、レオンハルトは笑いを押し隠した。
 とはいえ、彼もりとやと似た性質を持つ人間であるだけに、顔も知らない青年の事は内心気の毒に思っていた。加えて幼馴染の奔放さに頭を悩ませているという点では、正にぴったり合致する。
(フィジリアーテ……)
 その気ままな少女の名前を胸で呟き、そっと利き手で背中の荷物を撫でる。袋と体の間、つまり胴に巻きつけた布には、誰にも言わずに持ち出してきてしまった彼女のお気に入りの本が挟まっている。
 無断で持ち去る罪悪感をおし切って盗みをはたらいたのはただ、彼女に現実を生きて欲しかったからだ。

 フィジリアーテは、どういうわけか魔族の法に希望を抱いてしまう夢想家少女だった。
 幼い頃から仲の良かった二人だが、彼女の魔法の研究だけはどうしてもレオンハルトには受容できなかった。何度やめろと説得しても、フィジリアーテはやめない。それどころか意固地になって彼を部屋から閉め出してしまう事もあった。
 研究といっても、ちょっと裕福な家の箱入り娘ができる調べものには限度がある。彼女の両親は自由な考え方をする人たちだったが、無論魔法などという世界の禁忌には拒絶的で否定的だった。そんな環境では小遣いでこっそり古書を買い、自室に隠しては時々引っ張り出して読みふけるのが精一杯だ。
 だから、レオンハルトもこの数年は油断していた。
 ある日、街外れの泉で素振りをしていると、興奮した様子でフィジリアーテが駆け寄ってきた。酷く高揚した少女の、赤みのさした顔に心臓が脈打って慌てて目を逸らしたのをレオンハルトは覚えている。
 しかし、近頃急に綺麗になってきた幼馴染の話に、彼は我を忘れた。
「凄い本を手に入れちゃった! この文献、空に逃げた魔族が書いたものなの!」
 しかも紙の状態からして、書かれたのはつい最近よ。素敵だわ、空の人が書いたものがこの地上に流れてくるなんて。しかもこれがあるって事は、その人は今も生きているかもしれないのよ。
 右から左に抜けていく少女の声を、なんとか理解して頭に収めた彼が言い放ったのは怒声と詰問だった。
 バカじゃないのか、そんなものあるわけない。どこで買ったんだ、そんな本。あれほど普段から禁忌は禁忌だって言ってたのに、どうしてお前はわかってくれないんだ。
 その時の少女も負けん気が強かった。今までで最大の収穫物を否定され、怒りがこみあげたのだろう。涼しげな湖色の瞳が、あれほどつり上がったのはそれが最初で最後だった。
「わかってくれないのはそっちよ! みんなが魔法嫌いなのはハルトが昔から口うるさく言ってくるから、私でも知ってるわよ! だからせめて、ハルトだけでもわかってくれたらって、思ってたのに……どうして、バカとかそんな事言うの……!?」
 叫ぶうちにうわずり、こもってきた少女の声に、レオンハルトは途端に胸を裂かれたような悲しみが広がるのを感じた。
「お、おい、フィジー……」
「なんで駄目なの? どうして認めてくれないの? 一緒に同じものを求めて、同じ事を語り合って、それって凄く楽しそうじゃない。どうしてそれが魔法ってだけで駄目って言うの?」
「だからそれは魔法が地上を穢したから……」
「そんなんじゃ納得できない!」
「フィジー、その説明で納得できないなら、俺だってお前の趣味には納得できないよ」
「…………」
「…………」
 そうして睨み合い、次に本を渡せと嫌だの平行線をたどり、しまいには口げんかとなった。
 散々罵り合った後に、フィジーは妙な捨て台詞を残して街へ戻っていった。
「そんなにやめさせたいなら、魔族にも負けない強い剣士になってみせてよ! そしたら考えてあげるわ!」
 来るときには大事そうに抱えていた本を、今は片手に振り回すようにして引き返していく。そんな小柄な後姿が、否応なく空しさと寂しさをそそった。
 思えばその言葉が、彼の剣の道にもう一つの動機を与えてくれたのだった。
 彼にとっての剣の希求は、遠い時代の英雄への憧れだけではなくなった。

 最後までどうしようもないお転婆だったが、あんな少女でもレオンハルトには大事な存在だ。だからこそ、空に夢想を抱かず、この大地という現実に根ざして生きて欲しい。あの笑顔を想うとやっぱりやめておけばよかったかな、とも思ってしまうが、レオンハルトに引き返すという選択肢はあり得ない。彼女のためにも、この本だけは何に変えても葬り去らねばならない。
 想うほどに、望むほどに離れてしまう幼馴染の少女。扱いが難しいのに、どうしても放っておくことができない不思議な少女。
「……んん?」
 そして、レオンハルトは気づいた。見知らぬ男の報われぬ想いに。自分と似通った境遇の、不憫な男の思慕に。
(まさか、そのりとやって人……やえなを……?)
 彼女の後ろを歩きながらぼんやりと、棒切れのような背中を見つめる。その男も、こうして彼女の後ろを名残惜しそうに眺めて、ついて歩いていたのだろうか。
(でも、やえなはその人の事嫌いなんだろうな……束縛嫌いそうだし……)
 幾度目かの同情を感じたレオンハルトだったが、それを自分の関係に照らし合わせた瞬間、腹に杭を打ち込まれたように愕然となった。
「まさか、フィジーも……?」
 大事な本を盗み取った自分を、彼女は今度こそ許さないのでは。
 やえながりとやを嫌うのと同じようにして、フィジーは自分を嫌うのでは。
「ハルト、どうしたの?」
 色を失くした顔で立ち尽くす彼に、幼馴染とは似ても似つかない声が飛ぶ。
 しばらくして持ち直したレオンハルトの表情は、やはり強張ったままだった。


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