少し歩いてから突如振り向いたやえなの、真っ黒な、ややすがめた目で覗きこまれたレオンハルトは胸をのけぞらせた。
「落ち込んでるの?」
「大丈夫だ、何でもない」
「……ふうん」
 やえなは釈然としない気分を顔にも声にも隠さず出してやったが、この小心者の少年はもう怯まない。それどころか開き直ったように微笑を返してくる。
「…………」
 泣いた事が、かえって自己を曝け出すきっかけになったようだ。それがどうというものでもないが、存外鋭敏な彼が遠慮をしないとなれば、厄介事の気配しかしなかった。
「なんか吹っ切れたみたいだけど、私は慣れ合うつもりないからね」
 そう言って釘を刺すと、レオンハルトは微笑したまま「わかってるよ」とだけ返す。
「油断ならなそうだな……」
 進む方向へもう一度体を反転させつつ、口から洩れない程度の小声で苦言を呟く。髪でレオンハルトの顔をひっぱたかんばかりの勢いをつけてやったが、当たったかどうかはわからなかった。


 この日も快晴だった。真っ白い雲が空の高いところに点々と浮かび、そういう模様の天井のようだった。あれのうちどれか一つでも島であったならと、やえなは考えるが直ぐに視線を押し下げて地面の緑に縫いとめる。
 背後に意識を集中させるが、空を見ていた事を咎めるレオンハルトの空気は感じられなかった。
 ふうっと微かな息を吐いて、自身の足と土と雑草を視界の中にひたすら流す。空にも劣らず単純な眺めとなったが、退屈は感じない。やえなはこの世のどこでも見られる緑という、ありふれた色合いも大いに気に入っていた。
 誰が通ったのかも明らかでない、草原を貫く小さな道。狭い所では人が二人も並べば一杯一杯になってしまう、幅の開きが大きい不安定な通り。この平凡な道がいつの間にか空へと続いてくれはしないかなどと、柄でもない夢想を抱いてしまうのは魔法という鍵を掴みかけた影響なのだろうか。返す返すも、あの少女ときちんと話せなかったのが残念でならない。
「なあ、一つ聞いていいか? 多分あんたが聞いてほしくない事じゃないから」
 レオンハルトの真面目さが醸す声の低さに、やえなは嫌だと思う前に振り向いていた。レオンハルトは想像通り、少し下を向いた顔に固い表情を浮かべて両手を握りしめている。彼が言う通りやえなの隠し事に触れない質問であるにしても、愉快な話題ではないようだ。
「……どうぞ」
「あのさ、ただ単に気になっただけだから聞いておきたいだけなんだけど……」
「手短に」
「は、はい。……あのな」
 突然落ち込んだと思えば次には不敵に笑ってごまかし、しばらく歩くと今度ははばかるような事を尋ねようとする。彼の不可解さに嫌気のさし始めたやえなは、自分の謎に塗れた素性を棚に上げて冷たく先を促した。この子はやっぱりわからないな、と身勝手な感想を胸にしまい込みつつ。
「やえなって、そのりとやって人の事嫌いなのか?」
「ん?」
 何故そのような事を聞くのかと、やえなは一瞬だけ虚を衝かれた。りとやという人物については、彼女自身が語彙の限りを尽くしてこき下ろしたばかりではないか。
 が、いざ答えようとすると不思議と言葉に詰まった。
「うーん……嫌いというか……」
「…………」
 レオンハルトは、自分がりとやになったかのように息を潜めてやえなの返答を待っている。
「普段は嫌い、かもしれない……けど、いなくなったらとても悲しくなると思う。だから……本当は嫌いじゃない、むしろ好きの部類なのか……も」
 その答えに、初めレオンハルトの顔は沼に沈んだような絶望に染まる。しかし次の瞬間には安堵混じりの笑顔、最後には満面の笑みへと移り変わっていった。やえなの気味悪そうな目にも、その笑顔は動じない。
「何笑ってるの」
「いや、なんでもないんだ。でもそうか、嫌いじゃないんだな、そうか……」
「ハルトに関係ある事なの?」
「だから、ただ気になっただけなんだってば!」
 笑顔をにやけまで抑え、満足そうに自らのみぞおち辺りを撫でる。そのレオンハルトの動作にかすかな疑問と例の気まぐれを感じたやえなは、素早く腰に下げた剣をベルトから抜き取った。
 瞬時に引き締まった顔になった少年の手が、主の意思を待たずに彼の剣へ伸びる。当然、やえなの動きはそれよりも速い。
 雑なようでいて正確な柄の一撃は、瞬く間にレオンハルトの腹部へ吸い込まれた。
「うぐっ……!」
 人間の息が詰まる時の、苦しげなうめきが上がって少年の体は草の上に倒れこむ。
「やっぱり……」
「げほっ、ごほっ……な、何するんだよ!」
 船上で蹴られた時を想起させる、彼の頼りない裏返った声にも無反応なまま、やえなはわずかに眉を寄せる。
「ハルト、体に何か巻いてる?」
「え?」
 唐突ともいえるやえなの問いにレオンハルトは口を開け放し、そしてさも心当たりがありますと言うように目を伏せた。
「なんで今更聞くんだよ。あんたならとっくに気づいてただろ」
 再びその場所を大事そうにさする少年を、やえなは片手に剣を持ったまま見下ろして答える。
「うん、動きが変なのは最初から気づいてた。自分からハンデを背負いたいのなら好きにすればいいと思ったから黙ってたけど。でも私から色々情報を聞き出すのなら、それに見合ったハルトの事情もしゃべってもらう事にした」
「…………」
 先に隠し事をしたのは彼女の方で、そしてその内容はかなり重要なもので、更にその真相を彼はいまだ聞いていない。だが、その点を攻めても恐らく良い結果になりはしないだろう。レオンハルトはやえなが手にする長剣を恨むように見つめていたが、遂に肩を上下させてため息をついた。
「それ、今決めたろ……」
「うん」
 そして、突然殴った事も含めて、謝りも悪びれもしない。こういう人間なんだ、そういう人を選んだのは自分なんだとレオンハルトは自分を諫めてゆっくりと立ち上がる。
「やえなの言う通り、俺はここに本を隠してるんだ」
「本?」
 その声音からやえなの疑問を読み取ったレオンハルトは先んじて言い放つ。
「俺が読むんじゃないんだからな! こうやって持ち歩くのだって気持ち悪いし、開いた事もないんだ! 誰が読むかよこんな魔ぞ……」
「えっ?」
 レオンハルトが咄嗟に奥歯を噛み締めたのは、自分が携帯する魔族の書物を知られるのを恐れたためだ。彼の心配そのままに、やえなの無感情な目の色はぎらりと光を持った。
「ちょっとその本見せて。魔族の本なんでしょ」
「いや、そんな事は……」
「ある。絶対さっきそう言いかけた。魔族嫌いのハルトがどういう事?」
「おい、触るな! 危ないぞ!」
「いいよ、ハルトは今まで体に巻いて持ってたんでしょ? 何ともないはず」
「おい、ちょっと、待てって……」
 詰め寄るやえなの姿勢に気圧されたレオンハルトは、あっという間に陥落した。うんと言わなければ、やえなは直接レオンハルトから件の本をはぎ取りそうな勢いだったのだ。
 細長い女性の指が脇腹に触れた途端、服越しとわかっていても耐えられなかった。
「じゃあ、ちょっとあっち向いてろよ。それと、渡す時、直に触るなよ? あと、開くなよ?」
「わかったから、早くね」
 やえなが黒髪の流れ落ちる背中を向けたのを目に入れてから、レオンハルトも明後日の方を向いた。口を滑らせてしまった事を悔やむように、この上なく鎮痛な面持で服の裾をたくし上げる。一秒でも禁忌が人目に触れるのを遅らせるよう、慣れた作業をわざとのろのろと進めて布を必要以上に丁寧に巻き取っていった。
「はあ……」
 やえなの態度が異様に積極的になったのは、魔法を忌み嫌う世界の理のためだとレオンハルトは信じ切っている。しかし彼女の豹変は真逆の価値観からよるもので、魔法の書物を持ち歩く異端の振舞いを責め立てようとしているのではない。常識を重んじるレオンハルトの観察眼はこの時、常識故に狂わされたのだった。
 彼はその楽天的な性質から鈍いと思われがちな少年だったが、本性は人並み以上に鋭い聡明さも持ち合わせている。だが、その鋭さは常に発揮されるものではない事が、この少年の不幸であり幸運ともいえた。
「ほら。だから素手で触るなって」
 取り出した本を布で挟んで差し出すと、やえなはただの本を受け取るような気軽さでむき出しの両手を伸ばす。あわやというところでレオンハルトは手を引っ込めるが、やえなは彼にちらりと視線をよこすと事も無げに言った。
「なら、その布も貸してくれる?」
「え……」
 常に自分の体に巻いていた布を人に持たせる事に、堅物のレオンハルトは逡巡した。その隙にほっそりとした手が躍りかかり、獲物を狩る鳥のような素早さで本を取り上げた。
「あっ!」
「ほら、平気」
 血相を変えたレオンハルトを、やえなは面倒そうな眼差しで見やる。彼女にしてみれば、レオンハルトの魔法への拒絶は過剰であり邪魔でしかないのだ。
 やえなは何か言いたげな視線を無視して、手中の薄い本を見つめた。
 中の紙を含め、本自体は古いものではなさそうだ。変色が少なく、本当にごく最近、十年以内に書かれたもののように紙の一枚一枚がしっかりしている。やや厚手の表紙には、紺色のインクでやや崩した書体の題が書かれていた。
『罪悪である魔法の歴史』


前へ 次へ
戻る inserted by FC2 system