罪悪。魔法が。
 魔力をはらむ遺物そのものから魔法を断罪されるとは思っていなかった。ではもしや、空の浮島においても魔法は悪なのか。
 その衝撃を一旦脇に避けてやえなは努めて平板な声色を装う。
「歴史書にしては薄すぎない?」
 そう言って、小さな本の背表紙をつかんだまま自分の顔を扇ぐように翻す。彼女の狭く浅い知識にも、歴史書というものは相応の分厚さを持っているものだと収められている。だというのに、今やえなが手にする魔族の本とやらは、本というより紙を数枚繋ぎ合わせただけの質素なものだ。
「歴史書?」
 レオンハルトが強く眉間に皺を寄せたが、やえなはそれには気づかず、表紙を見つめながら問いかける。
「なんでこんな本持ってるの?」
 一息分の間を置いて、レオンハルトは一句一句はっきりとした、どこか慎重そうな調子で答えた。
「それは、俺の幼馴染の本なんだ。よく知らないけど、その本を処分してほしいみたいだったから、俺が引き取って持ってるんだ」
 本に集中したやえなの眼から一瞬も視線をそらさず、慣れない嘘を並べた彼の声はこれまでになく固い。しかし、それに気づいたのか気づかないのか、やえなは「ふうん」とやはり気のない返事をしてようやく持ち主に目を落とす。
「処分したいのなら、燃やせば?」
 ほらきた、と言わんばかりの大げさな動きでレオンハルトは肩をすくめた。
「それができたら、とっくにしてる。その本、火が燃え移らないんだよ」
 途端、やえなの顔から表情が消える。揺らぎの少ない彼女が感情の失せた顔をすると、最早そういう顔のお面のようだが、レオンハルトには既にその迫力は通用しない。
「……疑ってるだろ。俺がデタラメ言ってると思うなら、試してみろよ。マッチまだあるだろ?」
 が、彼女の凍りついた表情が何を示すのかを看破するまでには至らない。時折穿つように鋭い彼の感性でも、やえなの本音を見透かせなかった事は何ら落ち度ではない。彼女の考える事は、世界中の人間の反応とは真逆の方へと行く『突拍子もない』ものだったのだから。
(これは……冷たい空気が流れてくる。これも魔法……?)
 そのやえなの胸中は、本からにじみ出る冷気に対する興味で満ちている。凍るような無表情の根源は、この冷気と火を拒絶する本の性質を結び付け、納得したためだった。レオンハルトが言及してこない点から、直接触った時のみ、この冷ややかな空気は放たれるらしい。
「じゃあ、試してみようか」
 本心では彼の言う通り、燃えるはずがないと理解していながらやえなは荷物に片手を突っ込む。薄い紙束に目を戻した。
 本から漂うひんやりとした空気は、手だけが洞窟の中に飛び込んだかのように錯覚するほどだ。洞窟ではまだぬるいかもしれない。湧き出したばかりの水を集め、手を浸からせてみればそうなるのだろう。もう、指先はかじかみ始めている。
 この温暖な世界の日々で、手が寒さのあまりしびれるなど滅多にあるものではない。やえな自身、十九年生きてきて数えるほどしか経験していない。その貴重な体感に新鮮さを覚え、同時に魔気の強さに精神的な寒気を覚えた。目を凝らせば、湯気のような煙が流れ落ちていく様子まで見える。冷たさが目に見えるなど、これも初めての事だ。
 どうやら、魔法への感度が上がっているらしい。
 先の見えない自身の変化に、かすかな焦りが生まれる。あの晴れがましい笑顔で残忍な事を話す少女の、意味の深い言の葉が胸の奥をかき乱す。一刻も早く、探し人である彼の者に会わなければと思った。
 と、そこで指先が火種を探り当てた。
 もう一方の手の薬指と中指の間に本を挟む。小箱から一本だけ棒切れを取り出すと、本を持った手の人差し指と親指でつまみ、器用に左手で持った箱の側面に擦って点火する。
 箱をしまい、左手に持ち替えた火を本の隅へ近づける。レオンハルトの息が密やかになり、やえなの瞳が瞬きもせずに揺らめく炎を見つめた。
 火の先端が、紙に触れてぐにゃりと歪む。
 本来ならそこで紙の端に火が移り、黒く炭化させながら上へと昇り、全てを燃やし尽くしてしまうはずだった。
 が、何も起こらない。
「……?」
 燃えるマッチの先端を紙にくっつけてみるが、やはり冷気を纏う本は炎を拒み続けている。何も起こらなかった。
 やえなの黒の瞳が、驚きのあまり収縮したようだった。
「な!? おかしいだろ!? ほんと気味悪いぜ……」
 自然の理から逸脱した現象を目にして、レオンハルトは真っ青になって後ずさる。その嫌悪を隠さない顔からは、魔法を帯びたこの本を心の底から忌避している事がわかる。何より、やえなを案じて本を渡そうとしなかった彼が、今は一転して自分ひとりだけ逃れようと距離を置いている。あの、真面目で頭の固い、お人よしのレオンハルトが、だ。
 何かを恐れる感情の怖さを目の当たりにしたやえなは、呆然とはいかないまでも、意外に思ってレオンハルトに目を向けた。
 その時、刺すような突風が草の上を渡った。
 只中に立ち尽くしていた二人も、その流れに巻き込まれて目を細める。耳に打ち付けるぼうぼうとした音が、揃って煽られる長い黒と薄茶色の髪が、涼やかな新しい空気が、一斉に二人の感覚を撫でて通り過ぎていく。
 風の音に紛れて、ぱらぱらと手元から違う音が聞こえてきた。
「あっ……」
「あっ!!」
 開くなとあれだけ言われていた禁忌の本が、風にめくられて中身を露わにしている。
 レオンハルトと同時に声を上げた時には、やえなは見てしまっていた。その中に描かれた、勇壮な絵の姿を。

 茫洋とした大草原を高台から睥睨し、片腕を振り上げる赤毛の後ろ姿。夕日に立ち向かうように佇む背中は勇ましく、しかし緑の服に覆われた四肢はか細い。その形は女性のもののようだった。右手には巨大な火の玉が掲げられ、それこそが真の太陽とでもいうように四方に光の筋を投げかけている。
 女性が見下ろすその平原には見た事もないほどの数の人間がひしめき合い、まるで蟻の行列が混乱を起こしたかのようだった。
 まさか、とやえなが思った瞬間、女性は手を振り下ろした。
 魔法による攻撃は打ち止められたと思っていた眼下の人間達は、予期せぬ火炎の襲来に悲鳴を上げ、敵味方も無しにわっと逃げ惑う。うなりを上げて躍りかかる巨大な火の玉は、平原の真ん中、人が最もひしめき合って黒々とうごめいていた場所へ着弾、直後地が震えるような轟音を立てて破裂した。
 その様子は何か大きいものが水面へ落とされた時の、あの飛沫にも似ていた。しかし色合いが対極的に違う上、規模だってあまりにも違いすぎる。尾を引く幾つもの火の飛沫に分かれた火球たちは、その全てがたった一跳ねで数十人の人間を丸のみにした。
 そうして黒い巨大な丸印を点々と残し、彼女の魔法はようやく嘘であったかのように立ち消える。
 夕日に照らされた地面、生き残った人間、その両方を厳かに睨む視線を感じた。女のものではない低い声が後ろから響いた。
「戦いをやめよ」


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