一体誰なのかと振り向こうとしたが、自由がきかない。その時、やえなは自分の意思とは裏腹に直立する自らの体が、先ほどまで後ろから見ていた女性のものになりかわっていた事に気づいた。
「魔法を行使せぬと誓ったお前たちの原始的な戦いに、勝機はない。ここのピーネイロはその腕の一振りで、残るお前たちを根絶やしにする事もできる。意味のない戦いはやめ、引き上げるがいい」
 引き合いに出された女性は、一歩前に進み出る。操る権限も与えられず、ただ乗り移ったやえなには、彼女が硬い微笑を浮かべて生き残りを見下ろしているのが簡単に感じ取れた。
「あ、悪魔だ……」
 遥か遠くの群衆の、どこの誰が言ったのかもわからない。しかし、その呟きは確かにピーネイロの耳に届いた。
 それでもピーネイロは動じない。罵りの言葉は隣から隣へ、あっという間に伝播して声のうねりとなるが、なお彼女は泰然としていた。
「悪魔だ……!」
「悪魔の禁術を使ったぞ……!」
「あのような桁外れの術を戦場で使うとは、卑怯な!」
「お前達の陣営の者か! 魔族と手を結んだ外道が!」
「死に絶えろ!」
「黙れ! こちらも被害を受けたのだぞ!」
「話が違うではないか、シバンステファン!」
 ピーネイロへの罵倒は、やがて斬り結んでいた彼らの中を、互いを憎む火種となって弾けた。
 やれやれ、と大仰に呟くと彼女はパチンと指を鳴らす。満身創痍の人々の間を赤い火花が迸り、暴徒寸前に騒いでいた群れは一瞬で静まりかえった。まだ低地を点々と染めるまでに残っていた人の群れが、一瞬で、だ。突如訪れた静寂に耳が痛い。
「どうする? シバンステファン」
 ピーネイロが振り向き指示を仰ぐと、ようやく厳粛な声の主がやえなの目にも飛び込んできた。
 まさしく歴戦の勇者と呼ぶにふさわしい、勇壮な出立ちの男性がそこにいた。銀色の髪に褐色の肌、大樹のような体を覆うのは傷や汚れをそのままに使い込んだ鎧。背を守るように黒くはためくマントと鈍い銀の対比は、威厳の具現化のようでもあった。
 が、あまりにもこの場に熟練した様子とは対照的に、顔には皺も染みもない。不自然なほどの内面と外面の乖離は、他者に関心を持たないやえなにも強い違和感を穿った。
(何……この人)
「離脱しよう。これ以上の威嚇を行う意味はない」
「……シバ」
 まるで生き物じみていないと言っても差し支えない不均衡を備えたシバンステファンだが、その顔中には深い苦渋が滲んでいた。ピーネイロもまた、その苦しみに満ちた表情を悲哀を込めた目で見上げる。
 彼らは、そもそもこんな事をしたくなかったのでは。という疑問がやえなの中に浮かんだ。
 このピーネイロという女性も、力を誇示する事には積極的かつ好戦的な性格のようだが、蟻を踏み潰すがごとく大衆を屠る真似を快く思っていない事は明らかだった。恐らく、シバというこの男に命令されてもピーネイロはこれ以上の威圧を拒むだろう。
「行くぞ。これで十分だろう。彼らに魔法の脅威を教え込むには、な」
 人々を見る事すら辛いのか、シバンステファンは言い終わらぬうちからピーネイロに背中を向けて歩き出す。彼女も追従しようとして、さっと片手を真横にのばした。
「危ない、シバ」
 かっと手のひらが熱く眩しくなる。血ではなく体液でもない、燃え盛るような何かの流れが、全身の深部から湧き出して駆け巡る。熱を持った手のひらに集まる。ピーネイロが、頭の中で古めかしい響きの言葉を唱えるのがわかった。
 手の外へと火球となった魔力が飛び出し、集中した力は炎の針へと変わって彼女の下を離れる。
 しゅぼっ、しゅぼっと燃え盛る音を立てて放たれた火炎は、魔力を込められた兵の矢に狙い違わず命中した。空中で燃え尽きて消えた矢に、続くものはもうない。
 真横から視線もよこさずに撃ち落とした彼女の技量に、遥か下の人々は息をのんだ。
「一度約束が破られれば、このザマだ。我々がそれを誘導したのだが、な」
「…………そうだね」
 諦めも露わに二人は低い声で言葉をかわすと、それきり沈痛な空気を纏ったまま戦場を後にする。
 ピーネイロの視界から男の大きな背中を見上げながら、やえなは自失していた。
 これが、魔法。悪魔の禁術と呼ばれた、人を殺しつくす力。
 確かにその強大さと恐ろしさを思い知ったというのに、やえなは恐怖など微塵も感じていなかった。
 自分は今、ピーネイロの魔法の使い方を実感した。圧倒的なその力を操れば空へ上れる。そんな一貫した夢への望みに、全身全霊を支配されていたのだ。


前へ 次へ
戻る inserted by FC2 system