「やえな! やえな!!」
 大声で名前を呼ばれて、やえなは我にかえった。目の前の少年が心配そうに自分を見上げている。
「……ハルト」
「ああ、よかった……! やっとこっち見た……」
 視線を合わせると、レオンハルトは大きな肩を上下に動かして安堵のため息をついた。
 やえなは自然と辺りを見回すが、目に入ってくるのは一面の穏やかな緑と澄み晴れた空ばかり。一瞬前までの、あの壮絶な戦いの残滓はどこにもない。そもそも、あの光景がここで起こった事なのかも定かではないのだ。
 やえなは自分が真実、現代のエスディア大陸にいる事を知って呆然となる。本の中に引きずり込まれる寸前の風のせいか、手にしたマッチはとっくに消えて煙すら立ち上ってはいない。
「ここは、今か……」
「何だって? なあ、どこもおかしくなってないよな? 中身見るなり魂が抜けたようにぼーっとなってんだから、びっくりしたんだぞ?」
「……そう。それは、ごめんね」
 レオンハルトには何も見えていなかったらしい。魔法への拒絶の強い彼が今のピーネイロの所業を見たら憤死か失神でもしそうなものだから、本の中を覗かなかったのはかえって幸運だったのだろう。
「本当になんともないんだよな? 体がおかしくなったらすぐ言えよ? この本、もうやめよう。やっぱ危ないよ」
 レオンハルトの布をつかんだ手が、素早く注意深くやえなから本を取り返す。衝撃的な疑似体験で内容を叩きこまれたやえなは、特に抵抗もせず魔族の本を取り上げさせた。せっせと布で表紙を隠すレオンハルトの手元を見ながら、やえなは心底思う。中を見るなと警戒していた彼の判断は、過剰ではなく賢明だったのだと。
 本と共鳴したやえなには、また一つわかる事が増えてしまっていた。
 レオンハルトの持つ本は、目覚めた人間に更なる魔法を教授する力がある。開眼した人間がページをめくるとあの生々しい記録が流れ込んでくる仕掛けだ。彼女が火球を生成し、地上に投げつけた時の魔力の流れ、火矢を生み出して発射した瞬間の魔術の練り上げ方、それらが一気に本をひも解いた人間に打ち込まれる。
 やえなは、教え込まれたこの感覚をすぐにでも試したくてならなかった。早く先を知りたい。その気のはやりは、剣を父に教えてもらい始めた、あの頃の興奮とよく似ている。
「見せてくれてありがとう。先に行くよ」
「は? え?」
 普段のぶっきらぼうに輪をかけて唐突なやえなの言葉に、レオンハルトはあっけにとられる。待つ事もせずに歩き出す気まぐれな先生を、彼は本を抱えたまま、あたふたしながら追いかけた。


 その日の夕方、毎度のごとく歩き続ける災難に見舞われたレオンハルトは、やえなが森に寝床を定めるなりばったりと倒れこんだ。その拍子に土から出た木の根にこめかみをぶつけ、「いて」と呻くが当然やえなはその愛敬に頓着しないのだった。
「今日は私の修行をしたいから、ハルトも食べたら適当に剣振ってきな」
「ほんとに、どうなってんだよ、あんたの脚……」
「そっちこそ、いい加減慣れたら?」
 言いながら、やえなは肩から斜めにかけた鞄を下ろし、手近な木の傍に座り込む。軽く中を探って街で買い込んだ小さな干し肉の切れ端と焼き菓子を取り出すと、交互にかじり始めた。
 レオンハルトは軽く眉をひそめる。
「……珍しい食べ方すんのな」
「……ん、そう?」
 元々食が細い上、味覚にはこだわりが無いやえなには、食物の量も質も順序も大して意味を成さないらしい。レオンハルトの複雑そうな表情を受けながら、黙々と主食とおやつを同時に口に運び、かんでは飲み込む。
「…………はあ」
 勿論、美味しそうな素振りは陰も見せないものだから、見ていても食欲を誘われるものではない。彼女の人間味の薄さなどとうに知っていたとはいえ、今日の食事はあまりに無機質だ。これから食べようと思っていた自分の食料も、さして美味しくなさそうに思えてレオンハルトはしんなりした落ち葉に突っ伏した。
「食べないの? いつもはすぐかぶりつくじゃん」
「いい。……なんか、今はいい」
「……平気?」
「平気」
 食事には気分というものがどれほど大きな影響を持つかを知っているからこそ、レオンハルトは空気を大事にしたいと思う人間だ。が、生憎やえなはその辺の世界に生きていない。
 全く、合わない人を選んでしまったと思うが、ここまでついてくればままよというものだ。
「はい、火に必要なものは置いてくから。じゃあまた」
 マッチと、彼女が木々の間を進みながら集めた枝が湿った葉の上に落とされる音がレオンハルトの耳を叩いた。
 この辺、雨が降ったかな。土が湿っててたき火がしづらいだろうね。
 森に入ったやえながこぼした言葉が蘇る。足場の悪い木の間を、既に疲れ果てていたレオンハルトの腕をつかんで引っ張り、探しづらい火種を一人で選別して小川の近い開けた場所を見つけたのは彼女だ。
「いいよ。俺が火の番しとく」
 これぐらい役に立たないと、面目ない事この上ない。若干驚いたように目を開けたやえなに、上体を起こしつつ「行ってこいよ」とだけ返してレオンハルトは微笑した。
「……じゃあ、任せる」
 足音静かに離れていくやえなの振り向きざまの横顔は、心なしか笑っているようにも見えた。


 一人っきりの火の番を自ら引き受けるとは、案外成長しているようだ。
 都会育ちなために野宿には無知なところが多かったが、元が気遣いの細かい性格の少年だ。飲み込みは良かった。この調子なら一人にしていても大丈夫な時間が増えるだろう。
 一人の時間なら、やえなも大歓迎だ。
 小さな川に歩み寄り素早く水を喉に流す。袖で口を拭うと、気合いも新たに気が引き締まる。
 水音が聞こえなくなるまでゆっくりと川から離れ、しばらく立ち尽くしたまま周囲の音を探る。風が吹き渡って起こる葉擦れの音しかしない事を、たっぷり十呼吸分の時間をかけて確かめてから、やえなは目の前の木に体を寄せた。
 もう一度、左右と頭上に視線を投げ、耳を澄ませて人の気配が無い事を確かめる。
 やえなは深く息をついて、手のひらを胸の前へ、自分に向けて掲げた。
 本の中で感じた、魔力の鮮烈な流れは忘れようもない。やった事もないのに、何度も反復して覚えた剣の動きのように、魔法の使い方はやえなの中に脈打って根付いていた。
 まず、体の中に眠る魔気の存在をはっきりとつかまなければならない。それは人によって感じ方は様々で、ピーネイロの場合は暖かな夏の風のような、時に火のような激しい気の流れだった。では自分はどうだ。全くの初心者のやえなでは、どこまでいけるだろうか。目を閉じて息を潜め、あらゆる体感を遮断して瞼の裏の暗闇で気配を探る。
「…………」
 何かが、流れているのはわかる。だが、目に見えなければ音もせず、匂いもないし触れる事はなおできない。見えない水流を手探りで探すようなもどかしさに、自然とやえなの指先が開いては握られを繰り返す。その爪の先に、何かが当たる事を期待するように。
 意識が凝固していく。闇の中、体を介さない感覚に集中していくやえなの意識が、見えない気流にとけ、一体となってどこかを駆け巡っている。
「ん……」
 自分の中なのは頭ではわかっていたが、同時にどこか違う場所でもあるのが本能でわかった。明確なものとして目に入れてみたいが、目を開ければたちまちのうちにこの奔流は消えて遠くへ去ってしまう事もやえなは知っていた。ちょうど、目を閉じた時に現れてはゆらめく、あの直線的な模様のようなものだ。
 触れてみたい、目で見てみたい、そんな欲求を堪えてやえなは意識の世界に集中する。もう、耳は外界の音など拾ってはいなかった。
 そんな静寂に慣れた頃、突然ごうごうと流れる激流の音を聞いた。
「あっ……!?」
 驚いて片手で耳を抑え、開こうとした瞼を危ういところでぎゅっと瞑る。
 バクバクと自分の心臓の音がうるさく、音を立てないように気をつけて深呼吸を何度かして鎮める。再びありえないはずの水流の音が耳の奥から聞こえてきた時、やえなは自身の魔力の性質を悟った。
 これは、水を吸い上げる樹木の生命力だ。吸い上げられる水の力といってもいい。
 木と水。それが、やえなの生来持ち合わせた魔力と深く結びついた事象だったのだ。
「…………すごい」
 木々の歓喜が、やえなの心に結びつき流れ込んでくる。木の内部へと混じり合い隅々までいきわたり空へと昇る、水の冷ややかな喜びはやえなの喜びだった。
「すごい」
 目を閉じたまま、やえなは同じ言葉を呟く。声が、震えていた。
 そうか、だからだったのだ。
 だから、自分は空の浮島へとどうしようもなく惹かれたのだ。
 大地に根付く木々の緑は好きだ。けれど、空へと昇る水の流れも自分に属するものだ。きっと浮島には、この地上と同じ豊かな緑が存在するのだろう。その天に浮かぶ木々こそが、やえなの魔力の故郷なのだ。
 恐る恐る目を開ける。
 魔力の流れは、消え去らなかった。
「手に、集まれ……」
 震える声のまま命じると、手のひらに冷涼だが柔らかな気が集まってくる。もっと、もっとと念じると、それは指先から大きな雫となって伝い落ち、手のひらへと収まった。
「……すごい……」
 自分が作り出したきらめく水の光を、そっと握りしめる。川を流れる普通の水と何ら変わりない、何の変哲もない水だ。けれど、これはやえなが魔力を練り上げて初めて作り出した、魔法の水なのだ。
 これを繰り返し練習して、ピーネイロのような巨大な力を扱えるまでに昇華させれば、あの島に渡れる。
 自分の魔力の源、故郷へと、行ける。
 本の中で感じた希望よりもずっと強く、その歓喜はやえなの中で跳ね回っていた。


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