近頃、レオンハルトは剣の練習に身が入らない。柄を握っても剣を振り下ろす自分を思い描けず、ひどい時には鞘から抜くこともできない。
 これが人を殺す道具なのだと知ってしまったあの時から、ずっとこうだ。
 剣が人を斬り刻むさまを、初めて見た。赤い水滴が足元に飛び散り、自分に迫る人の顔が痛みで醜く歪むのを見た。
 自分が、人にあんなことをするのか。
 師と仰いだやえなの手前、恥ずかしくてそんな怯えは見せないようにしているが、きっと気づいているだろう。野宿の時、稽古に誘ってくれる機会が目に見えて減ったのだから。
 けれど何も言ってこないやえなには腹が立つやら、安心するやらで、レオンハルトはそんな自分の勝手さにもうんざりしていた。
 街を離れて歩き続け、途中小さな村に寄っては別れを繰り返す。そうしてようやく夕方に疲れ果て倒れることもなくなったある夜の夕食後、彼は思い切って尋ねてみた。
「やえなは、人を斬ったことがあるのか?」
 ひどくか細くて弱弱しい声だったが、やえなはきちんと聞き届けてくれたらしい。即座に質問が返ってきた。
「あれを見てなかったの」
「いや、見てたけど……、あれより前にだよ」
 やえなの長い刃に斬り裂かれた少女が脳裏にちらつき、レオンハルトは眉を寄せて軽く首を振った。『あれ』を蒸し返すつもりなんてない。
「ある」
 短い一言を、彼は一瞬幻聴かと思った。だが、やえなは勢いのないたき火に視線を定めたまま、眩しいはずの一点を凝視している。火の色を映し込んだ黒目が、いつもとは違う感情を持っているように見えてレオンハルトはごくりと喉を鳴らした。
「人を斬って殺したことがあるか、でしょ。あるよ」
 頭の天辺から血がひく思いがした。だが、それぐらいの経験をしなければ、強くなることはできないのだろうとも思った。やえなの常時不気味なまでの落ち着きは、そういう凄絶な体験に支えられてのことなのかもしれない。
「誰を……」
「旅に出る前、故郷に略奪に来た旅剣士の成れの果てを数人、ね」
 旅をしながら荒事で金を稼ぐのは楽ではない。仕事にあぶれ続け、最終的には徒党を組んで強盗に走る哀れな者たちも後を絶たない。
 レオンハルトの故郷のような大きな街なら、自警団を組織する余裕もあっただろう。だが、やえなの場合は山奥のひっそりした集落だ。全て、自分たちで備え対抗しなければならない。
「やえな一人で、何人もか?」
「ううん。父と一緒に」
 それだけの腕があれば駆り出されるだろう、とレオンハルトは冷静な自分に渋い気持ちを抱きながらも、続きを待つ。
「一人は出会いがしらに胸を一突き、もう一人は喉を半分以上断ち割って」
 淡々と語るがために、余計に迫力を伴う。やえなは躊躇いなく、それをやってのけたのだろうか。もしかしたら、レオンハルトと同い年の時にでも。
「……あの剣士崩れは、私たちの集落に来る少し前に、近くを通っていた隊商も襲っていた。大人たちの代からずっと毎年商売に来てくれている人たちだったけど、その時、私より三歳ほど上の集落の姉さんが隊商の若い人といい仲になって、一緒についていった」
 今にも息が止まりそうになった。それでは、襲われた隊商と一緒にいたやえなの仲間は? 想い人と遂に一緒になれ、幸せだったはずの部族のお姉さんは?
「どうなったと思う?」
「……どうなったんだよ」
 それをレオンハルトに聞くなんて、いつにもなく意地悪な言い方だ。もしかしたら、やえなでもこの話は口にしたくないのかもしれない。そのせいで、わざと彼が忌み嫌う話の進め方をしている。
 けれど、聞きたい。聞かなければならない。そう思った。だから彼はとめなかった。促した。
「私は特に彼女とは親しくなかった。けれど、彼女がされたことを残らず聞き取った周りは怒り狂った。当然だと思う。私が、とどめを刺してやれって叩き出された」
「なんでなんだ……」
「彼女の遺品を手に取って、これは私たちが嫁入りする女の人に持たせる祝いの品だって聞いたのが、たまたま私だったから。なり行きだね」
 そこで、一度やえなは言葉を切る。そのまま深く俯いた。髪をくしゃくしゃにしそうなほど、右手が頭を抱え込んでいる。神経質そうに左手の爪が脚をひっかき、次にはかわいたため息が聞こえた。
「周りが言う通りに、やってやった。指から切り落とし、それから……色々と、最後に心臓を突き刺した」
 今度こそ、眩暈がした。躊躇など決してしないけど、不必要に苦しめることもしないやえなが、そこまで残酷なことを――
 けれど、彼女自身も望んでいなかったのだ。でもそうしなければ、きっと仲間の怒りは収まらない。それがわかるだけの聡さはあったから、やえなは自分から手を汚した。
 そして今も、周囲の圧力に屈してしまったことを納得していない。
「初めて剣を握ることに抵抗を覚えた。方向性は違うけど、今のハルトと同じように」
 あのやえなが、悩んだのだ。あれほど冷徹に人を斬り、その後平然と肉を食べる図太い剣士が。
「それから、集落の人間には親しみを感じなくなった。普段はあんなに静かな人たちでも、怒るとああなる。自分がこういう人間だからなのか、人の感情的な部分に、嫌悪? みたいなのを感じて。……人を殺すのなら、強制されてではなくて、自分の意思でするようにしようって思った。あらゆる圧力のせいで、仕方なくやったのではなくて」
「じゃあ……」
「だから、あれは自分の意思だよ。怒りに任せてではなくて、守ろうと思って振るった剣。しかも、他人の代弁ではなくて、自分の意思。こう言ったら怒るだろうけど、私は清々しかった」
 自分の意思で、人を斬れて。
 レオンハルトは言い方に問題があると不満も覚えたが、やえなが語ってくれた答えの本質はそこではないことも理解していた。
 やえなは、レオンハルトを守るためにあの少女を斬ってくれた。それは彼女自身が決めてしたことであり、レオンハルトが強制したのではない。やえなにとって、そこが大事なのだと。
「俺の場合は、守るためなら、……できるんじゃないかって……?」
 声にしてから、自分が無駄なことをした気になってきてレオンハルトはやえなの黒髪から顔を背けた。
「人を斬らないと強くなれない。練習と実戦は違い過ぎる。私はそれからも故郷を襲ってくるならず者を何人か斬ってるけど、そのたびに変わっていくのがわかった。殺すことへの抵抗を踏み倒してでも強くなりたいと思うなら、自分をごまかせる言い訳をつくる。それができないのなら、家に帰るしかない」
 冷たく、突き放すようで愛想のない話し方だった。それでも、レオンハルトの迷いを見抜いた上で「こうすればいいのでは」という助言をする体には、一応なっている。
(いつもはぎょっとするほど冷たいのに、時々優しいんだよなー……)
 優しさを注ぐ時期も方法も、きっとこの人は気まぐれで決めるのだろう。正直、ありがたくはないはずなのに、苦笑が浮かんでしまってレオンハルトは膝の間に顔を隠した。
「あー……そうだな。確かに、うん……」
「守る人ならいるでしょ。フィジリアーテって彼女」
 曖昧に照れくささを凌いでいたのに、突然恥ずかしさの急所を突かれてレオンハルトは爆発した。
「だから、それはやめろー!」
 それ以来、ぎこちなくではあるが、レオンハルトは剣の修行に打ち込むことができるようになった。毎晩やえなに頼んで剣を打ち合わせては反省を重ねる、以前の習慣を取り戻したのだ。


前へ 次へ
戻る inserted by FC2 system