朝の清澄な空気の中、軽やかに、そして時折激しく鋼鉄が打ち鳴らされる。普段の感覚なら、絶対にうるさいと思って顔をしかめるだろう剣戟の音は、やえなの耳には快く響く。
 風のない湖面のような心の奥底が疼く。決して水上には現れない高揚を感じながら、やえなはレオンハルトの持つ刀身に自らの剣をのばし、沿わせた。
 まるで自らの腕を動かすかのような滑らかな動きで、新緑の抜き身をすり上げ、斜め上へと弾き飛ばす。レオンハルトの剣は狙った軌道を大きく外れ、彼の体も引っぱられて脇ががら空きになった。
 ほんの一瞬の動きで、稽古は終わった。
「……まいった」
 横腹を軽く叩かれたレオンハルトはお決まりの言葉を呟き、降参する。
「あー、やっぱり勝てないな。あんたの手、一つも攻略できてないしな」
「でも、速さも重さも増してきてる。もう少し続ければ、真剣でやるのが怖いぐらいになると思う」
 やえなの淡々とした言葉に、肩を落とした押しかけ弟子はたちまち顔を輝かせた。
「ほんとか! やえなが怖いって思うほどなんて、相当強いってことじゃないか!」
 子供じみた笑顔に、やえなは嫌味気もなくうなずく。
「そもそも、やえなが怖いと思うなんてこと、あるんだな」
「あの女の子は怖かった。あれは化け物」
「そ、そうか。やえなが怖いなんて、さすが魔族……」
「私を何だと思ってるの」
 自分の感情を立て続けに否定されれば、さしものやえなも機嫌をそこねる。レオンハルトは慌てて謝ると、痺れの残る手を振るった。
「ところでさ、やえなの剣って珍しい色してるよな」
 やえなは、剣を鞘に納めた手を止めてレオンハルトを見る。
「形も独特っていうか、先が欠けてるのは、そういう意匠なのか?」
「色はわからない……けど、この欠けた所は、父がうっかり割ってしまったせいらしい」
 今のやえなならよくわかる。この剣にも、レオンハルトには不可視の魔力が宿っている。やえなの力によくなじむところから、樹木か水に関わる魔力だろう。父が渡した剣がこうなら、出立の時の妙な言い方も考えれば、おそらくやえなの父は……
「親父さん、刀剣趣味なんだよな? 相当落ち込んだんじゃないのか?」
「大変だったよ。丸一日食事もとらなかった」
 剣ばかりではない。意識しなければ何も見えないが、よくよく目を凝らすと、この世のあらゆるものには魔力が秘められているのが見える。木はもちろん、草にも、雨にも、魔法を嫌うレオンハルトからでさえ、光輝く霧のような魔気が立ち上っている。
「そりゃすごいな! 余程思い入れのある剣だったんだろうな」
 冬の朝、水から生まれ出る靄にも似ている。やえなは純粋に、その魔気を綺麗だと思った。
 この力の源を自覚し、自在に操れるようになることを目覚めと呼ぶのだろう。レオンハルトからも魔力が見て取れるのなら、この世界の全ての人間が魔族の素質を持っていると考えてもおかしくない。その事実を思い浮かべると、苦笑いがもれそうになる。
 世界は、魔族まみれだ。今まで皆、なんとあっけなく簡単に騙されていたことか。
「私によこしたんだから、どうだろうね。とにかく今日はこれまでにして、水……」
 そう言ってやえなは遠く、視界の端に流れる小川に目を向け、不意に動きをとめた。
 やえなのためらいに気づかず革袋を拾い、先に歩きだしたレオンハルトの背中をじっと見つめる。
「…………」
 感覚が鋭くなりすぎている。濃密な水の匂いに一瞬、息がつまり、耳も鈍くなった。
「やえな? どうした?」
「ん。なんでも。片付けるから、そっちよろしく」
 振り向いたレオンハルトに適当に手のひらを振り、やえなは背を向ける。
 レオンハルトが不審に思った様子がないことを確かめてから、自身の手を見下ろした。
 幾度も擦り切れて厚くなった手の皮も、指の付け根にできたタコも、立派な剣士の証だ。しかし、少し目に力をこめるとそこには魔法の輝きが現れる。限りなく白に近い薄緑の茫漠な光は、今は水を意識したためか淡い水色に変化している。
「静まれ……」
 言葉少なに命じると、にじみ出る魔力はひいて薄皮のように手にまとわりついた。
 口にする必要はないが、明確な言語にしないとまだ自在に動かすことはできない。特に水の場合は。水は、大人しいがつかみどころがない魔力だ。
 だが木なら。
 やえなは抑えたばかりの力を葉桜色に燃え立たせ、手のひらを目の前の木に向けた。
 意識で言い放つと、彼女の意志に従って名もなき木はさわさわとその枝を揺らした。
 木なら、大した訓練も無しにここまで習得してしまった。思いついたこと全てを、面白いように再現できる。とまれ、と葉を睨むと、動物のように木は動きをとめた。実験はあまり開けたところでするものではない。
 たき火跡の枝を方々に放り、焦げた地面を周りの土をかけて隠す。二人揃って散らかす方ではないので、これで片付けは済んでしまう。
「ハルト……」
 水をくんでくるだけなのに、と訝しんだその時、ぬるい嫌な鳥肌が腕に走った。
「ハルト……?」
 その方を見て、思わず奥歯を噛みしめた。川の傍に小さく見えるのはレオンハルトの緑の服、そして対する見知らぬ人影。言い争う声がかすかに届いてくる。
 やえなの嫌な予感は、本当によく当たる。


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