レオンハルトがその男に気づいたのは、歩きだして数歩のことだった。
そして反応が遅れたのは、その人物が、よくある旅剣士崩れのならず者とは思えない風体をしていたからだった。
彼にとっては憎むべき長身で、長い金髪を結ばず風にあそばせている、目鼻立ち整った男だった。白い肌は活動的なレオンハルトから見れば理解し難いほど病的で、生まれてから今まで屋根の下から出たことがないかのように眩しい。緑色の瞳は深く大きく、一見したところでは優しそうな印象を受ける。
さらに肌に劣らず白い服は染み一つなく、青いジーンズをとめるベルトから垂れ幕のような皮がぶらさがって、左腿を覆っている。その布に縫いつけられたいくつもの小さなポケットには、ナイフや名前もわからない武器らしきものが音一つ立てずに収められている。
顔だちは穏やか、服も小ぎれいな軽装で、細々した武具は整頓して持ち歩く几帳面そうな身なり。
旅の戦士からすら脱落した者特有の、荒々しさが皆無だったのだ。
粗暴な輩ではない、ならば。
友好的に切り出そうとしたレオンハルトの声は、出ることがなかった。
「なんだ、一人か? お前、もう一人はどうした?」
男の傲岸不遜な物言いにムッとして、レオンハルトは口をつぐんだ。見下すような冷笑を浮かべても整った顔と、それを裏切らぬ滑らかな美声が余計に癪に障った。
「近くにいるんだろう? 長い黒髪の、腕の立つ剣士が」
「……さあ。それに、そろそろ発つところだから、腕比べって言われても……」
そこで彼は言葉を切った。
やえなの剣の腕を見て追いかけてきたのなら、手合わせに使う武器はどこにある? そんな針みたいなナイフで戦うとでも?
「あんた……」
低い声で言うと、不審な空気は音を伴って膨れあがった。
「なっ……!」
ぼっ、と火が燃える音を立てて圧迫感が迫ってくる。急に熱を持った空気が頬を撫で、しかしそれが何かを口に出すこともできない。辺りの景色が熱湯を通して見たかのようにぐらぐらと揺れ、眩暈さながらに足元がおぼつかない。
「ふうん、お前思ったより勘がいいようだね。しゃべらせておくのは危険だなあ」
(な、何だって……!?)
物々しい言い方に本能が粟立つ。こいつ、やばい、と。
「く、来るな……!」
もう、緑の葉も、木の幹も小刻みに震えて自分の目が信じられない。それでも剣の柄に手を置き、威嚇するように腰を落とし、叫ぶ。
「来るな! 来るんじゃない、やえな!」
その怒声を発した直後、表情もわからなくなっていた金髪の男の顔が、確かに微笑むのをレオンハルトは見た。
「いい子だ、レオンハルト。そのまま、目を閉じて眠れ。そしてすべて、忘れてしまうんだよ」
仰向けに崩れ落ちたレオンハルトを飛び越え、跳躍の重みをのせて斬りおろす。直後、未知の感触を手に感じて、鋭く細めた目を猫のように見開いた。
「はっ……!?」
危なげなく着地しながら、やえなは散らばる髪の間から臨むものに絶句した。
鉄を打ち合わせる音を出して、その一閃は男の肩を刻む寸前で止められていた。顔の大きさほどの半透明の壁が現れ、淡い緑に輝きながらやえなの剣先を受けとめていたのだ。敵は腕を組み、不敵に微笑んだ姿勢のまま、動こうともしない。
「どうしたんだい。なかなか有望な目覚めの気配があったと聞いたから期待していたのに、まだこの程度の防御も破れないのかい?」
丈高い外見とは裏腹に、やや高めで深みのある、妙に耳に残る声だった。
「魔族……?」
大きく飛び退きながら、やえなは呟く。男は端正な容貌に大仰な喜びを広げ、声を張りあげた。
「ご名答! 世界から生きることすら拒否された哀れで恐ろしい化け物、それが我々魔族……今や、君も含めてだけどね」
言いながら徐々に両腕をほどき、芝居がかった緩慢さで持ちあげていく。
「が、それもすぐに過去の認識となる。我々はじきに持てる力を使って、世界に秩序を」
その時、鋭い気配が風となって、空気を裂いた。
ビシッ──
と、聞きなれぬ音が空間から漏れ出る。再び踏みこんだやえなの渾身の振り降ろしを緑の壁が受けとめ、若干の反発を持って弾き返す。やえなは険しい目つきになってレオンハルトの傍まで後退し、隙なく剣を構えなおす。
「人の話を遮るなんて、不躾な奴だなあ」
穏やかながら、男の声には言い尽くせぬ不快がにじんでいた。
「あなたの話に興味は……なくはない。けれど、あなたはハルトに何をした?」
やえなは横目で倒れたレオンハルトの顔を見やる。苦悶のない表情はまさに寝ているようだが、魔法でなされた状態に油断はできない。
「ハルトを起こして。できないなら、ひどい目に遭うことになる」
「おいおい、随分と野蛮なことを言うね。僕は君と戦いに来たわけじゃないんだよ? わかったらその物騒な前時代の遺物を下げてくれないか?」
やえなは一層目をいからせ、剣の柄を握りしめてまたしても男の方へとにじり寄る。わけもわからぬ苛立ちがわいてきて、従ってはならないという本能的な警告を煽りたてるのだ。この男の軽薄なしゃべり方、自分を優秀と勘違いし相手を劣等とみなす傲慢。彼女にとって、一番気に食わない人種だ。
男は呆れたように肩をすくめ、唐突に左手をあげてやえなに手の平を見せた。
瞬間的に周囲が白く反転し、びりっとした衝撃が右肩を貫いた。
「つっ!?」
痛みはそれほどでもなかったが、感じたことのない感覚で剣を落としそうになる。何が起こったのか、まるでつかめない。
身を潜めていた鳥がけたたましく鳴きわめいて飛び立ち、人間同士の争いなど無視して木の実を食んでいたリスも、弾かれたように二人から逃げていく。
「次は、威力をあげて左腕を狙う。痛いどころではすまないぐらいの力だ」
笑いを蘇らせて男が言い放った。
「僕は寛大だから、まずはこれぐらいの力で警告をしてあげたんだよ。ほら、よく目を凝らしてごらん? この手に集まる魔気がどんなものか、目覚めはじめの君でもわかるだろう?」
言われる前から、やえなは凝視していた。そのため男の言葉が終わる前から、その力の大きさがどんなものかおぼろげに見てとれた。
何もないはずの空間に、無数の金色の糸が激しくうねっている。手の平を中心に暴れる糸らしき塊は、より魔力に長じた者であれば、より明晰に見通せただろうことはやえなにも理解できた。
(雷……小さな……)
それを無から生み出している。
自分の、現存する物体を微かに動かすだけの力とは格が違う。
やえなの顔色が僅かな変化を示したのを見て、男は微笑んだまま頷く。
「さあ、剣をしまうんだ。それが君のためになる」
柔和な声色に、何故か鳥肌が立った。
「さあ」
二度目の誘いを、やえなは地を踏みしめてこらえる。靴の下でじり、と草が音を立てた。
「剣を納めなくても、話はできる」
「本当に君って頑固だね。自分が選べる立場にいないってこと、まだわからないかなあ?」
瞬間、やえなは黒い瞳が白目に囲まれるほど両目を見開き、体を僅かに右にずらした。
先ほどの白い閃光が視界を塗りつぶし、直後左の二の腕にひりつく熱さを覚える。
「……っ……お前……!」
初めて、人をそう呼んだ。そこまでの激情を覚えること自体少なかったやえなの、焦り混じりの怒りの発露だった。
憎いほどの優越感を漂わせ、手には小さな稲妻を絡ませたまま男は再び肩をすくめた。
「でも、そのままでも話せるのはまあ、事実だね。自棄になって暴れられても困る。
いいさ、用件を言おう」
男が一歩、やえなに踏みだす。薄っぺらな芝居なのはわかっていても、自分との間に閃く雷撃を通して視線を合わせると嫌な汗が出てくる。
「僕はアル。樹木師の上位組織より、君を仲間に迎えに来たんだ」
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