無音のまま踊る稲光も、足元に意識を失っているレオンハルトも、やえなの認識から数秒の間消えた。
 思いもしなかった、魔族からの誘い。
「……何、それ」
 言葉の意味を尋ねたのは、あまりにも緊張感に欠けた俗っぽい言い回し。それ以上、質問に割く労力がなかったのだ。
「それもすべて、君が一緒に来てくれればわかる」
 これで何もかも問題は去ったとばかりに、アルは手の光を消して、改めてやえなに手をのばした。握手の形にして。
 やえなは動かなかった。剣の構えを解くことなく、辛抱強く状況や相手の真意に考えを巡らせる。
「ハルトを置いて?」
 一番の懸念を口にすると、アルは意外そうに眉を上げた。
「当然さ。目覚めも迎えていない、役に立つのかもわからない手合いを抱えこめるほど今の我々に余裕はない」
「……そう」
 やえなの心は決まった。正直に言えば、魔法を行使する一団からの勧誘にやえなは強く揺さぶられていた。この男に従えば、行き方も、実在するかどうかもわからない空の島に向かうための強力な支えとなることは想像に難くない。
 が、そう言われるのなら仕方ない。返答は一つだ。
 この、どうしようもなく能天気で気の利く、邪魔だけど役に立ってくれる、気さくな少年を捨てるほど人間を捨ててはいない。
(断る……!)
「今、やって!」
 寸前までの静かな話し方から一転した、刺すように鋭い声でやえなは指示した。
「なっ! 仲間……!?」
 蒼白になって狼狽えたアルは、やえなの視線を追って背後を振り返り──
「おあっ!?」
 勢い余って足首をひねり、転倒。頭があった場所をやえなの剣先が素早く切り裂いて、尾を引いた金色の髪が数本飛んだ。
「き、キサマ! げっ!」
 真っ赤な嘘に気づいたアルが怒りに顔を歪めるが、次の手に移る暇もなく、身を翻したやえなの足に打たれる。
 今度は爪先が、それも丈夫な靴底に補強された一撃がアルの脇腹に綺麗に入り、男一人の体重が軽く吹っ飛んで横倒しになる。
「ぐえっ! げええ……っ!」
「重っ……! 足、痛……」
 腹を抑えて、美貌が崩れるのも構わずに悶絶するアル。対するやえなは、覚悟していた以上の重量を足一本で動かした反動に顔をしかめる。
 しかし攻撃の手を緩めてはならなかった。魔法を使われては、駆けだしの自分などあっけなくやられる。いけすかなく、アホじみた男ではあるが、遊びのような魔法の気配を醸し出された先刻、やえなは確かに動けなかったのだ。
(先手、必勝……今が好機!)
 やえなは、レオンハルトと違って人を殺傷することに躊躇いなど持たない。ゆえに両手で大きく振りあげられた若葉色の刀身は、情け容赦なくその首筋を断ち切るはずだった。
 狙い定めた一閃が、アルに迫る。
 そしてやえなに伝わる岩を叩いたような手ごたえ。剣士として、己の武器を案じる寒気が走った。
「ぐ……ぐぐ……この、野蛮な、愚民あがりが……」
 蹴られた痛みと激しく咳きこんだせいか、土気色になったアルの憤怒が、長い金髪からのぞいた。
 アルが腕を振ると、剣を防いだ石板のような魔法壁は、放り投げられたようにやえなの顔面目がけてすっ飛んでくる。
 斬ることも、魔力で弾くこともできない。慌ててのけぞって避ける。
「っ!」
 重心を拾いきれず、アルがしたようにやえなも地面にへたり込んだ。
 逆に立ちあがったアルに見下ろされ、やえなは勢いをつけて後方へ跳び、屈んだ体勢で視線を受けとめる。
「この僕に、足蹴を食らわすとは、野蛮な……なんて、下賤で、野蛮……」
 軽蔑も露わに、アルは呪いのように繰り返し呟く。魔法は痛みの軽減までできるのか、苦しむ様子はもはや片鱗もなかった。その目は怒りに燃えていながらも、片時もやえなを逃さない。
 不意をつけないなら、斬りかかっても無意味だ。
 冷静な自分が弾き出した否定にやえなは唇を結び、次の手を探っていると、ふっとアルが脱力したように微笑した。
「仕方ない。君に本領を発揮するまでもないと思っていたけど、そこまで嫌がるなら、僕もこうせざるを得ないね。さあ、今度こそ大人しく従ってくれよ?」
 その時、ぬるい寒気ともいうべき、不気味な感触がやえなの全身を包んだ。それはアルの存在を感知し、レオンハルトが彼と話している時に感じた鳥肌と同じものだった。
 害意ある人間の、魔気の感触だった。
「やえな、剣を捨てるんだ」
 すぐ耳元で囁かれているような、大きく生々しい声だった。左右を素早く見回してしまうが、アルは目の前に立っていて一歩も動いていない。
「わかるね? 剣を、捨てるんだ。さあ、やってごらん」
 右手に、じいんとした痺れが走った。まさか、と思い至った時には指が徐々に力を失くしていく。
「え……」
 手に力を込めても、自分の体ではないかのように意思が通じない。夢の中で走ろうとしても前に進まないのと同じように、一切効果がない。
 自らの手を見下ろし、なお抗うやえなにアルは違う言葉で陥落を促す。
「こちらを向いてごらん」
 言われるまま、首が勝手にまわってやえなはアルを見上げた。ほんの微かに強張った表情で固まるやえなの目を、アルは悪魔のように美しい微笑みを浮かべてのぞきこんだ。
「僕の言うとおりにするんだ。何も考えてはいけない。そんなことをする必要はない。すべて、僕が命じるとおりにすればいい」
 今度は、頭に痺れが走ったように意識が曖昧になっていく。危機感を覚えたものの、直後には何故そう感じたのかもわからない。
 剣の柄が、指の中を滑る。辛うじてひっかけて落とすことは免れても、細い指は小刻みに震えていた。
 何も考えない。言われたとおりにする。剣を捨てる。
 駄目だと叫んでも、その威勢はすぐに萎れて立ち枯れて、頭が用をなさなくなる。行動の頼み処が、アルの言葉しかない。
 その言葉が導くままに、我を失くしていく。そんな危うい自分を、すぐに自覚さえできなくなるだろう。
「どうして、そんなこと……!」
 その予感を契機として、やえなの自我に、強い振動が根づいた。
 子供じみているかもしれない。それでも、やえなは昔からそうだった。
 他人にはてんで興味がわかないのに、自分のことは何でも自分で決めなければ気が済まなかった。一人で旅に出ることも、集団の中で孤立を選ぶことも、人を斬ることさえも、誰かから指図されるのではなく自分の意志でやり遂げたかった。それは今この瞬間でも、まったく同じことだった。
 誰にも、私を動かすことを許さない。私のすべては私だけのもの。
 心で静かに唱えると、かっと胸の奥が熱くなり、熱から力を得て明瞭な自我が戻ってくる。どこかもわからない全身のどこかから、水がこみ上げて、そこここに漂っていた植物の種がみるみるうちに芽吹き、やえなの手に、脚に、頭にも蔓をのばし枝を広げ、外の邪悪な声を振り払う。
「んっ……!?」
 やえなの瞳が強い光を保っていることにアルが気づいた時には、もう遅かった。
「離れろ!」
 やえなの叫びが、爆発した。慣れぬ命令を臆することなく発したやえなから、青と緑の靄のような魔気が漂い出る。
 膝をつき、地面の草と土に接していた髪の先が蠢いて茶色に変色する。木の幹の深い茶色だった。そして量の多い髪の一部は独りでに寄り集まって毛束をつくり、固く変質して枝となる。方々に零れるような若葉を次々と生み出しながら、先端をアルに向ける。
 アルに矛先を向けたのは、やえなだけではなかった。辺り一帯の木がざわめきだし、不穏な葉擦れを鳴らしながら枝を一点に寄せ集めていく。アルを狙う矢じりのように。
「な、な、なんだこれは……この力、遥かに……」
 さらに、木々の向こうの少し離れた場所から、水の塊がゆらりと立ちあがってくる。顔のない蛇のような形をしていたそれは、大きく震えて頭頂だけを切り離すと、無数の小さな塊に分裂する。
「ひっ……お、お前……こんな時に目覚めなくてもいいじゃないかああ!」
 水もまた鋭利なナイフの形に整い、切っ先が自らの方に向いた頃、ようやくアルは身の危険を悟って悲鳴をあげた。
「し、知らない……! 私だって何がなんだか……」
 眉を寄せていたやえなが手を漂う水塊に向けると、桶をひっくり返したような音を立てて水が小川に戻る。
 すると、木の枝が一層殺気立つようにしてアルに詰め寄った。
「お、おい! これもお前だろう! どうにかしろ! 頼むから、はやく!」
「う、うう……」
 当人たるやえなも動揺していた。感覚がまったく捉えられない。まるで体が一気に二つにも三つにも増えたようだ。木を抑えれば水がアルをのみこみ、水を鎮めれば無数の葉が刃となってアルに突き刺さるだろう。それでいいといえばいいのだが、動けないレオンハルトを巻き込んだら命の保証ができない。
「くそっ、くそおお……!」
 涙声で悪態をつくが、アルには状況がよくわかっている。これでも暴走にしては統制がとれている方なのだ。だからこそ、また『声』で干渉してはやえなの均衡を崩し、自分は真っ先に……
 そこまで予感した途端、アルは混乱が頂点に達した。
 咄嗟に視界に入った少年の頭まで回りこみ、体を起こして肩を抱える。ベルトから吊ったポケットにしまった、外面を整えるためだけに揃えた刃物から適当なものを出して、レオンハルトに突きつけたのだ。
「お、おい! 止めろ! 止めないと……」
 暴走する魔族を止める場合におけるタブー、それを犯すには最適の振る舞いといえた。
「あ、ああ……ああああっ……!」
 アルと盾にされたレオンハルトを見るや、やえなは自身を支配する大いなる力の沸騰、膨張に屈した。自覚はないが既にレオンハルトを仲間と見なしつつあるせいで、彼を人質にとられることは、少なからずやえなの薄い情に影響を及ぼすのだ。
 今、その少しの影響があまりに莫大な力の暴走を招く。
 木の葉がぎりぎりっと巻いて紡錘形に固められる。小川の水が、今度は水塊を経由せずに水のナイフとなって浮かびあがる。やえなの髪も、枝となった部分がのびて地を這いながらアルを目指して殺到する。
 嵐に見舞われたように凄まじく、不吉な騒めきを伴って葉が一斉に枝を離れた。枝自体も怒りに駆られてか、裸になった自身を幹から外してアルにとびかかる。水の刃も、その多くが木に突き立って弾け飛びながら、かいくぐった少数の凶器がアルを貫こうと飛来する。
 アルの絶叫が、響く。


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