「よせ!」
 短い一言とともに、凄まじい反発の力がやえなの魔気に絡みついた。
「えっ……?」
 例えるなら、自分の手足を意に反して操られている感覚。自分の体が勝手に動く感覚。が、妙なことにやえなの強い自我に反抗心を覚えさせることはなく、するりと彼女の魔気に侵入してくる。
 鋭い枝葉の槍が、止まった。水の刃が、四散する。
 子供の頃、何かを手取り足取り教えてもらった時の包み込むような優しさが、見えない力を代わりに導いている。
「──誰が」
 その介入にようやく彼女特有の拒絶を覚えたやえなは、内側に凄まじい抵抗を込めて何者かを追い出そうとする。
「無理に動かそうとするな、この少年まで巻き込むぞ」
 今度は、本物の声で制された。
 振り向けば、レオンハルトをかばうようにやえなとの間に立つ、見知らぬ人物。その男が、魔気の光をやえなにのばしている。
 やえなは微かに目を広げただけで驚きを表すと、すぐに了解したように全身の力を抜いた。
「話がわかるようで助かる。──むっ!」
 男が気合を入れると、パシンと弾ける音を立てて光が一帯を包んだ。
 ざわめきながら、枝が元の形に戻っていく。葉が、柔らかにほどかれて地面に落ち、あるいは時を巻き戻すように枝に帰ってくっつく。草や土に吸われた水も、じゅるっと吸いあげられる音を立てて、一滴残さず川へと巡りもどっていく。
「は、はへ……」
 気絶せんばかりの様相だったアルが、言葉にならない声をあげた。何故か、いまだに怯えた情けない目をして。
 やえなが暴走を起こした現場とは思えぬまで見事に元通りとなった林の風景の中、やえなを諫めた男は厳しい目で見つめる。アルを。
「アロイシアス」
 名を呼ばれ、アルは叱られた子供のように身を震わせる。
「な、な、なんだ! お前は! 僕をそんな風に呼ぶとは、ぶっ無礼な!」
 精一杯の強気を見せるアルに、男は静かながら容赦がなかった。
「そんなことはどうでもいい。それより、無理な誘いや他人の操作は道に反すると、前にも教えたはずだがな?」
 アルは青い顔をしながら、さすがに魔族というべきか譲ることはしなかった。
「そ、そっそれが僕の仕事だ! 僕の使命だ! お前のような野良魔族に、僕の天より授かりし声をどうこう言われる筋合いはない!」
「声を使うのをやめろという話ではない。だがここでお前と不毛な問答をする気はない。早く帰って、二度とこの人たちに関わるな」
 男は強い口調で言いながら、やえなの横を通って前に立つ。長くのばした銀の髪が、それだけ別世界のもののように揺らめいてきらめく。
 アルは美貌を歪め、歯ぎしりせんばかりの不満をこめて男を睨んでいたが、力の差はよく知っているようだ。険しい顔をしたまま、一歩後ろへさがる。
「ディム……グロウス……!」
 それだけを吐き捨て、アルは大きく後方へ跳躍。その足が地面を踏まないうちに、彼の姿は目の錯覚でも起こしたようにかき消えた。
「さて、大丈夫かな、そこの少年も含めて」
 見返った男の目を、やえなは漆黒の瞳で見つめる。
 銀色の前髪の下にある、鮮やかな瞳は緑と紫。レオンハルトから話しただけで恐れられた、高位の魔族の証。
「ディム……グロウス……」
 そして、父から是非会えと勧められた、謎の人物。
「ディムでいい。長いからな」
 左右で印象の異なる瞳孔で、彼は意外なほど気さくな微笑みを見せた。


 レオンハルトが目覚めたのは、見知らぬ小屋の天井の下だった。一部屋で完結する、一人暮らしのための簡素で小さな小屋。
 ベッドに寝かされているとわかり、近くで食器を動かす音を聞いて顔を横に向ける。
「ハルト。大丈夫?」
 背中を向けて湯を注いでいた長い黒髪が振り返る。
「ああ……俺、どうしたんだっけ……森ん中で、変な奴に……」
「そんなの、いた? ハルトの他は誰もいなかった」
「え? でも……」
「疲れが出たんじゃないの。いきなり倒れて寝込むなんて。そんなにしんどいなら、言えばいいのに」
 いつもどおり、次々投げつけるような言い方をしつつも、やえなは湯気のたつカップをレオンハルトに差し出す。
「何か忘れたけど、いいのが入ってるらしいよ。飲んだら」
「お、おう……」
 熱すぎず、持ちやすい温度なのも、やえなの気遣いなのだろうか。そう思ってレオンハルトはカップを受け取ったものの、呆然と無表情な剣士を見つめる。
「いらないの?」
「あ、いや……ありがたくいただくよ。ところで、ここ、どこだ?」
「通りすがりの人の家。ハルト、寝てるだけに見えたけどまずい病気だったら私じゃ何もできないから、拾ってもらって、色々用意してもらった」
 レオンハルトは絶句した。感動で。
 あの、他人に興味を持たないやえなが。見知らぬ人間との会話は極力自分に丸投げするようなやえなが。不覚にも山中で倒れたふがいない自分のために、そこまでしてくれたのか。
「わ、悪い……ごめんな、俺……」
 じんと目に鈍い痛みが走って、熱がわきあがってくる。涙もろいのは彼自身コンプレックスだったが、この時は特に恥ずかしいと思った。
「……泣くことは、してない。めんどくさい……」
 やえなはたどたどしく呟き、力いっぱい眉をひそめる。そういえば、人に泣かれることはこの強き剣士の思わぬ弱点だった。
 この人は、感情表現が薄いだけで、決して冷たいわけではないのだ。とレオンハルトは思う。
「ありがとう、やえな。そんなやばい病気じゃなくて、多分疲れてただけだ。拾ってくれた人にお礼を言わないとな」
 やえなが淹れてくれた薬湯を勢いよく飲み干し──彼女の手が入ったものとは思えないほどほんのり甘く、するりと喉の奥に沁みとおる白湯だった──ベッドから滑り降りる。
「その人、どこにいるんだ?」
「そろそろ戻ってくる。でも覚悟しておいた方がいい」
「なんで?」
 やえなの平板な声で警告されると、不穏さがいや増しに増す。
「その人……」
「お、起きたか。元気そうだな」
 やえなの後ろ、小屋の入り口から楽しむような男の声が聞こえた。
 まだ明るい昼のことで、さらにその両目は隠すことなく陽光にさらされている。
 右が緑、左が紫。その瞳の違いは、彼がこの世で最も恐れる種族の証明。
「ひっ……!」
 その音声を発したきり、レオンハルトの呼吸が止まる。
 視線がはるか彼方に遠のき、頭が傾き、起きあがったばかりの体も傾く。
「ハルト……」
 やえなの呆れた声を聞き届けることもなく、レオンハルトは再び小屋の中で失神したのだった。
「だから言ったのに」
「もっと早く言ってやればよかったんじゃないのか?」
「あなたこそ、楽しんでますよね」
 ベッドと十字交差するように倒れ、頭は壁にぶつけ、首を痛めそうな方向に向いているレオンハルト。またも無意識の世界に飛んでしまった彼を、二対の全く異なる瞳が、それぞれの感情を宿して遠巻きに眺めている。


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