紹介状代わりの手紙を門兵に渡した時、やえなは平然としたものだった。
 一方レオンハルトは、細い背中に隠れるようにして目の前の豪華な眺めに圧倒されていた。
 太く高くのびた鉄格子の柵は重厚な暗い緑に塗られ、薔薇が優雅に絡まっている。赤、白、黄色、紫と様々な色彩が大輪となって格子を飾る様子は、レオンハルトには現世の別世界に感じられた。
 薔薇が這わない門扉からは、すっきりと真っ直ぐのびる白い道が透かし見えた。踏むことさえためらってしまいそうな、整然と敷き詰められた石畳が来客の視線を正面の屋敷に導く。
 見上げるような大きさではないが、レオンハルトの目には充分な豪邸に映った。建物の周囲には主の住み処を守るように背の高い木々が植わっていて、揺れる緑陰が慎ましやかな雰囲気を醸していた。あたたかみのある優しい白い壁が、木漏れ日を受けてほのかに輝く。
 初見にもかかわらず、二人はあっさり通された。姉妹から話があったのか、案内もつけられず、目前の屋敷へ入るよう手で示された時にはさすがのやえなも「いいんですか?」と訝った。
「あのお二方は変わり者でしてね。しかも姉のエカルラート様はそこらの剣士など足元にも及ばない剣術の達人でして、我々も出る幕がないんですよ」
 貴族の使用人にしてはくだけた口調で若い門番は答えた。丸い兜の下で、彼の目がちらりとやえなの剣をかすめる。
「まあ、育ての親が心配性になるのはわかるが、護衛なんてあのお二人には必要ないだろう。あんたもそのうちわかるさ」
 年が近いと判断したか、急に馴れ馴れしくなった門番はやえなの肩に触れようとして顔を強ばらせた。
 いつの間に抜いたのか、新緑色の長剣の切っ先が、青年の手首を刺す寸前で牽制している。
「それは私が自力で判断します」
 強盗に睨まれたような顔で、軽薄な門兵は両手を見せて素早く後ずさった。
 やえなは剣を納めると、素っ気なく前を向き、門を自分の手で押し開けて行ってしまった。
「……なんか、すいません」
 脅された気の毒な門番に軽く頭をさげ、レオンハルトはその後を追う。白く平らな地面が日光を反射して、目が変な方向から眩しさを訴えてきた。
 目の下に手をかざすという、珍しい手振りをしながらレオンハルトは真っ黒な背中を見つめる。その髪の黒さは、眩しいこの場所ではささやかな目の安らぎだった。
「やえなって、意外と気が強くて喧嘩っ早いよな」
 思ったことを口にすると、彼女本人も自覚していなかったのか、ちらりと視線をよこされた。それだけだったが、驚かれたことはレオンハルトにはよくわかった。
 それ以上言うことはなく、白い地面を二人は黙々と歩く。
 屋敷に近づくと木陰に入り、太陽のあたたかさよりも下からの照り返しがなくなったことにレオンハルトはほっとした。
 と思うや、やえなが突然立ち止まる。
「わあ! やっといらしてくれたのね!」
 静かな扉を開けて舞うように出てきたのは、華奢な少女の晴れやかな笑顔。淡い蜜柑色の髪と瞳に、若芽色のワンピースが爽やかに映える。
 少女の登場に居ずまいを正したレオンハルトの前で、やえなは無頓着に口を開いた。
「ご存知でしょうが、ディムグロウスという人の依頼で来ました。遺跡調査の護衛ですよね」
 自由に生きてきたやえなの、精一杯の敬語だった。元孤児の令嬢は名乗りを欠いた言葉遣いに目くじらを立てず、ただ面白そうに来訪者を見回した。
「やえなと、レオンハルトよね。もう知ってるよ。ディムさんが頼んだ人なら安心だね! 私はマンダリーヌ。よろしく!」
 もう知っているとは、どういうことか。当然の疑問を尋ねようとして、レオンハルトは声を失くした。やえなに向かってぱちりと片目をつぶる少女の茶目っ気に、愛想を振り撒かれた方が微かに眉を寄せている。
「あ、あの、遺跡調査の護衛って聞いたけど、俺たちまだそんなに詳しく知らされてないんだ。話を聞かせてもらえるとありがたいんだけど……」
 女らしさにこだわらないくせに、やえなは男と思われると妙に気にする。レオンハルトが割って入ると、マンダリーヌはそのよく動く橙色の瞳を純朴な少年に定めた。
「いいよ。でもレオンハルトってちょっと長いよね。レオンでいい?」
 みるみる赤くなったレオンハルトは「……はい」と言うことで気力を使い果たし、顔を背けた。
 今度はやえながレオンハルトの変化を悟り、マンダリーヌに声をかけた。
「中で聞いても?」
「うん! どうぞー!」
 幼なじみの少女以外はてんで免疫のないレオンハルトは、またやえなの背中に隠れる形でおずおずとついていった。
 玄関扉は色こそ重厚な茶色だが、音を一切立てずに開いて閉じる様子は行き届いた手入れを感じさせた。その戸口をくぐると、主たるマンダリーヌとは正反対の印象の、落ち着いた内装が二人を迎える。
 暗い青の絨毯が、床から目の前の幅広の階段まで一続きになっていた。磨きぬかれた手すりの焦げ茶が、二本の線を描いて光の中に消えていく。
 窓は階段の踊り場、そして天井近くに大きく開けられていて、一階の少なめの採光を補って余りある眩しさだった。
 その窓も精緻な桟に囲まれ、複雑な影を階段に落としている。
 真ん中の一番大きな窓は桟からのびる鉄の飾りで、優美な何かが描かれていた。鉄の蔦が中央に集まり、形作るのは長い髪を広げ、長い丈の服を着た人のようだ。しかし、やえなにはほんの数秒で別のものに見えてきた。
 髪はいっぱいに広がる木の葉、すらりとした胴はたくましい木の幹、服の裾は空に浮かぶ大地の裏側……
 空の、浮島。
 窓に向けて踏み出しそうになったその時、窓の真下、階段の踊場にもう一人の人影が立った。
「ようこそおいでくださいました。ディム様のご紹介の方ですね」
 逆光で白と黒の影に見える。声の高さから女性とわかるその人物は、語りながら階段を優美な動作で降りてくる。
「そこのマンダリーヌの姉の、エカルラートと申します。見てのとおり、大変自由な妹ですので、その子が何か失礼をしていなければよろしいのですが……」
「ふっ……!」
 大人びた上品な所作に、唐突な笑い声が入っては誰もがその方を見るだろう。
 マンダリーヌが、笑いをこらえて涙を浮かべた目で姉を凝視している。
「あっははは! お姉ちゃん、何それ! ディムさんがよこした人にまで格好つけなくてもいいじゃん!」
 けらけらと笑うマンダリーヌにレオンハルトは唖然となり、やえなは無表情のまま赤い髪の女性を振りかえる。
 お姉ちゃん、と庶民的な名で呼ばれた養女の姉は、腰に手をあてて両肩をすくめた。服の襟が横に広いので、鎖骨から肩の丸みまでが剥き出しになっている。
「マンダリーヌ、いいじゃないの。たまにこういうことしないと、忘れちゃいそうで」
「そんなすぐには忘れないよ! お年寄りみたいなこと言っちゃって!」
「そう言うリーヌこそ、猫かぶっちゃって」
「かぶってないもん」
 落ち着いた室内の、きらびやかな姉妹の和やかな会話。やえなにもレオンハルトにも馴染みのない光景であるだけに、二人の客人はあっという間に取り残されてしまった。
 察したマンダリーヌが姉を手のひらで示した。
「私のお姉ちゃんだよ。いつもこんな感じだから、かたくならなくていいからね」
「は、はい」
 レオンハルトは大袈裟に頷き、やえなは無言で首を動かす。
 たくらんだ微笑みを浮かべるエカルラートには、華やかの一言がぴったりとあてはまる。肩の線を撫でていた白い光は、驚いたことに直射日光の外に出ても明らかだった。常に何かを塗っているかのような肌が、窓の少ない一階の薄明かりに眩しい。ライラックのような紫の服も、淡い色合いがかえって彼女の輝きを強調するようだ。
「せっかくだから、上でお話しましょうか」
 レオンハルトのような異性がよくする、圧倒された視線にエカルラートは慣れているようだった。階段の上を見やって、またにこりと微笑む。
 階段。そこには、一人の女性に擬態した空の浮島のレリーフ。
「…………」
 やえなの注意深い沈黙を知ってか、マンダリーヌが横からぴょこりと体を曲げて黒い瞳をのぞきこむ。
「どうしたの?」
「いえ、なにも」
「では、こちらへ」
 エカルラートが颯爽と振り返り、降りてきた階段に足を乗せた。
「あっ……」
 ほんの僅かな声だったうえ、女性ばかりなので微笑ましい空気になっただけだが、レオンハルトはうつむいて火照った顔を隠した。
 エカルラートの、サルビアのように赤い髪は肩甲骨の半分あたりまでしかない。にもかかわらず、彼女のワンピースドレスは腰近くまで大きく背中があいていて、滑らかな肌が無防備にさらされていた。
 自分の足元しか見られないレオンハルトをやえなは無情にも押し、先に行くよう促した。彼が動揺しようが、やえなが気遣う事柄ではない。
 最後尾を勝ち取ったやえなが階段の踊り場で見るのは、当然、空の島を象った窓の装飾。
 島周辺を走るか細い鉄の桟も、ただ仕方なくそこを這っているのではないことがわかる。島の周囲から下に広がっていく流れは、まさに水が落ちる様子そのもの。服の裾と解釈するよりも、ずっと腑に落ちる。
「……!」
 視線を感じて斜め後ろに顔を向けると、二階の廊下を歩みながらやえなを見おろす、エカルラートの深く美しい笑顔。レオンハルトが美女の目の先を追うと同時に、やえなは階段に意識を戻して足早に三人の後に続いた。

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