「!」
 やえなも鈍くない。音も少なに立ちあがり、不安そうに足踏みする馬たちの横に飛び降りる。
「やえな?」
 異変に気づいたレオンハルトの、緊張した声が呼んでくるがそれには答えない。沈黙が一番の答えになる。
 気づかれたなら隠す必要もないと思ったらしい。明らかな他者の存在が、茂みを分ける音となって近づいてくる。三人。
「後ろ、お願い」
 前から二人来て、一人は後方にまわった。人数の少ない方はレオンハルトに頑張ってもらうしかない。短く役割分担を言い渡すと、彼の動揺がわかる。
 側面で、空気が乱れる。見定めるよりも先に体が動き、剣で弾き落とす。
 真っ二つに折れた短い矢を踏んでさらに折り、意味は薄いと知りながら木の間に呼びかけた。
「退きなさい。死にたくありませんよね」
 愛想のない物言いが不遜にとられることを、やえなは自覚していない。
 感じる殺気が膨れあがり、こめかみに毛皮が生じたかと思うほどの寒気を覚えた。地面に切っ先をたらした剣を引き寄せ、同時に膝を曲げ、腰を落とし、構え、飛び出してきた影に向かって自分も飛び出す。
 交差する一瞬が、間延びする。垢で汚れた黒い顔には、理不尽としか思えない何か大きなものへの憎悪をたぎらせた、ぎらついた目。それでこの敵がどんな背景を持っているのか、やえなには知れた。夢破れ、自分を認めない世界すべてに怒りを抱くことで自分を守ろうとしている、旅剣士崩れ。
 びっ、と何かを裂く音がして、浅い手ごたえが残る。突っこむことを諦め、最初の一撃を真横にずれて避けた野盗は、転がりながらやえなから距離をとろうとする。素早い大股でそれを追うやえなの足取りは、容赦がなかった。
 相手が立ちあがる暇を許さず、真上から刃を落とす。充分な余裕のあったやえなの振り下ろしは、野盗の欠けた刀身をガラスのように容易く砕いた。
 憎しみを宿した野盗の目に、驚愕が浮かぶ。舌を鳴らすが、敵は意外な見切りの速さを発揮してやえなに背を向けた。
「逃げますか……」
 物言わぬ野盗は、不運だった。
 やえなは、他者を襲い財産を奪う輩を、見逃すように教育されてこなかった。故郷は、盗賊の報復を恐れた。一人として生き残らせてはならぬと、厳しい教えを見回りの剣士に課してきた。
 踏みだしたやえなの細い靴の上で、捻られた腰が力を解放する。剣の長い刃が、やえなができうる最速の薙ぎ払いを受けて唸る。
「いいわ! 逃がして!」
「……!」
 咄嗟に捻った手首の先で、刀身が向きを変える。手に伝わったのは人を絶った重苦しい感触ではなく、したたかにぶつけた衝撃。斬られるとばかり思っていた野盗は、裏返った悲鳴をあげた。
 すぐに違うと気づいて倒れるより先に踏みとどまるが、肩越しにやえなを振り返った目には既に戦意はない。野盗はいかにも苦しげな呻きをあげてよろめいた。
「ぐっ……」
 切り裂かれはしなかったが、鉄で殴られたのと同じだ。追いかける気がないことを悟った敵は、再び走りだして木々の間に消えていった。
 鉄錆のにおい。生々しい音。手に残る重さ。引き受けると覚悟していた感覚がない勝利は、なんとも軽く肩すかしだ。
 けれど、稽古の後のような清々しさがある。
 感慨に長く浸らないよう、勢いよく振り返る。馬車からはそれほど離れていなかったから、エカルラートがしたことがつぶさに見えた。
 赤毛の美しい令嬢は、馬車から降りていた。しかし危なげなく敵の剣を受けとめ、力の逃がし方も心得ているのかまったく押されていない。加勢はいらないか、と考えた直後、エカルラートの細く真っ直ぐな剣が異様な白さを放って光った。
 太陽の反射ではありえない眩しさは、光線が見えるほどの束に集まり、彼女に襲いかかる野盗の顔を照らす。目がくらんで呻く敵の剣を、猫の跳躍のような軽やかさで押し返して、大きく片足を引き、重心を後ろへ。そこからは姿がぶれるほどの素早さだった。前へ体を揺り戻す動きは葉が落ちる時にも似た無我。振り抜かれた剣先はあやまたず野盗の首筋を裂くのではなく、打ち据えていた。
 意識だけを綺麗に刈り取られた敵が、声もなく倒れる。
「……お見事」
 軽く飛び退いて剣を納める動作にも、柔らかさを感じさせる。人並以下など、とんでもない。洗練された剣術だった。
「やめろ! 来るな!」
 差し迫った声に、エカルラートとそろってやえなは馬車の後方を睨む。
「くそっ! あっちに行け!」
「レオン、頑張ってー!」
 虫か獣相手に使われる場違いな台詞、子供の遊びを見守るかのような緊張感のない応援に今度は二人同時に肩の力が抜けた。
「……乗られてないなら、馬を走らせて逃げてしまえばいいかしら?」
 エカルラートも苦笑している。やえなは敵にはとどめを入れておくものだと思ったが、この女性がそこまで望んでいない上、まだ青いレオンハルトにそれは無茶だと気づいて息をついた。
「では、そのように」
 ひらりと馬車に戻ると、なるほど後ろの幌の向こうには忌々しそうにレオンハルトと剣を打ちあわせる最後の敵。彼は賢明にも自分が上の立ち位置を譲らず、背中にマンダリーヌをかばって奮闘している。
 何か罵倒する声が聞こえたが、野盗の感情は関心の薄いやえなの耳にも心にも入らず、残らない。雑音に負けないように、やえなは慣れない大声でレオンハルトに指示を出した。
「ハルト、このまま走って逃げるから、降りずにそこで適当に相手してて」
 しかし、返ってきたのは安堵の叫びではなかった。
「嫌だ! ここで、俺が、こいつを……っ、やらないと、駄目なんだ!」
 途切れ途切れで息もあがっていて、決意のわりには頼りなさがにじむ。意地につきあうなどやえなには面倒でしかないが、レオンハルトの意志は本物だった。
「どうする?」
「……このまま、やらせましょう」
 戦っている人間を説得する手間、無理に逃げて後から文句を言われる煩わしさを思えば、この方が楽に思えた。やえなはどうせ手出ししないのだし、こちらが有利には変わりない。相手が冷静になって逃亡するまで、やるだけやってもらおう。
「わあっ!」
 レオンハルトが窮地に陥ったがための声ではない。自分から剣を振り降ろしておいて、まるで襲われたかのような叫びをあげている。
「レオン、上! もっと速く!」
 マンダリーヌの声援に答える余裕はなくとも素直に聞き入れ、敵が飛び退った隙に大きく上へ構えて迎撃の姿勢を見せる。
「……妹さんも剣を?」
 やえなは小声で隣に立つ赤い姉へ問う。
「いいえ。あの子はこっち専門」
 そう言って、掲げた指先にまた光をちらつかせる。言葉は悪いがのんきな振る舞いはもう指摘しないことにして、やえなはもう一つ問いかける。
「楽しんでいるように見えますが」
 その方がやえなには気にかかった。魔族といえど、二人は戦いが日常の生活を送っているのではない。マンダリーヌに至っては剣術もしない。その割にはかなり気が緩んでいるというか、命のやり取りをしている実感を持っているようには見えない。
「ああいう子なの。気にしないで」
「……そうですか」
「いけっ! 頑張れ、レオン!」
 どうやらマンダリーヌの天真爛漫は、戦闘という異常事態においても揺るがないものらしい。
 二、三度の剣の打ち鳴らしを経てまた距離をとり、さらに打ち合う。あまり長居して二人の気絶した敵に復活されては苦労が水の泡なので、そろそろ決めてほしいところだ。
「……諦めませんね」
 野盗の粘り強さに、やえなは感心すらしていた。相手は女ばかりとはいえ、仲間を倒した手練れ。数でいえば自身が不利に違いないのに、一人残った野盗はなかなか逃げない。時折雄叫びや罵言が聞こえるが、レオンハルトも剣と同様悪意も上手くいなしている。こうも危なげないと暇で、雑念が生まれてくる。
 練習台、という単語が頭にちらつく。酷な発想だ。しかし、これは腕をあげつつあるレオンハルトが現状の、いまいちお遊びめいた剣から脱却するいい機会になる。
(人を、自分の手で、自らの意思で……)
 やえなは人から圧力をかけられてのことだった。納得する殺し方など存在しない、とわかっていても、いまだにひっかかるものを感じてならない。
 レオンハルトには、そういうしこりを抱えてほしくない。
 精神面まで面倒を見てやるつもりはなかったのに細やかな気遣いを抱いていることに、やえなは困惑する。これまで感じた意外な自らの一面を思い返し、もしかしたらたまたま出生地の人間と上手くいかなかっただけで、自分は自分で思うほど他人に冷淡ではないのかもしれない。なんて思ったりもしてしまう。
 今も、手助けする気持ちは微塵もないのに、剣に手をかけながらレオンハルトの戦いを見守っている。
 大丈夫だ。レオンハルトの腕なら、いける。
 人に信頼を置く感覚の温かさに、やえなは目を瞬かせた。
 その時は、あっけなく訪れる。
「ああっ!」
 また自分が斬られたかのような悲鳴をあげて、レオンハルトは剣を突き出した。
 どんっと鈍い音が聞こえた気がした。
(……やった)
 冷たく細められたやえなの黒い瞳に映るのは、呆然と動かない少年の背中。さらにその先には、罵倒を吐くこともできなくなった野盗の体。驚愕に目を見開いている。
 マンダリーヌが恐れた風もなく、レオンハルトの腕をつかみ、引かせる。
 剣の切っ先が、突き刺さった野盗の胸から抜けて血の飛沫を散らした。栓を失った心臓の穴から、どくどくとワインのような液体が流れて質素な服を染めていく。
「あ、あ、が……」
 最後の言葉は言葉にならず、声の断片だけを残したまま、野盗は仰向けに倒れてやえなの視界から消えた。
「……行ってください」
 エカルラートを見ずに促すと、目の端で赤い髪が頷くのがわかった。

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