全力で走り目的地を目指す道中、揺れる馬車の中で尻もちをついた体勢のままレオンハルトは動かない。目は見開かれているが爛々としているのではなく、ただ丸く大きく開かれているだけだ。鞘にしまうのも忘れたか、剣をまだ抜き身で握りしめ、赤く汚れた刀身が毒々しい。
「レオン、ありがとう」
 ずっと傍にいて鼓舞していた橙の髪の少女は、頑張り抜いた彼に静かな調子でお礼を言った。
「あ、ああ……」
 レオンハルトのおぼつかない笑みに、マンダリーヌは変わらない静けさで、言い聞かせるようにして説く。
「気にすることなんてないよ。ああいう人たちは、どうしようもないんだよ。あの人よりも、私はレオンがどうかしちゃう方が悲しいな。レオンもそうだよね?」
「う、うん」
 罪作りなまでに思わせぶりな言動だが、元が英気にあふれた少年には効果があったようだ。空洞だった空色の瞳に焦点が戻ってくる。
「私ね、思うの。人ってどんなに力を持っても、何でも選べて何でもできるわけじゃないんだろうなって。
 完璧な人なんていないんだよ、きっと。敵の人も、自分の大事な人も、両方生かすなんて、誰にもできない。だからせめて、どちらかをとるしかない。それがあの人じゃなかった。それだけじゃないかな?」
 難しい顔をしていたやえなは、その言い方に感心して眉を上げる。
 レオンハルトも驚いた様子でマンダリーヌを見ていたが、ほどなくして落ち着いた笑みを浮かべて頷いた。
「そっか。そうだな……。まだ吹っ切れたわけじゃないけど、俺、頑張れそうだ。ありがとう、マンダリーヌ」
「うん。よかった」
「……さすが」
 元気な少女の爽やかな笑顔に、やえなは小声で心からの称賛を贈る。人を励ますなんて、とんでもない偉業だ。適当な言葉を並べてなんとかしようと空回りし、気まずく黙りこむ無様な自分が簡単に想像できるからなおさら。
 エカルラートの声が面々を呼ぶ。徐々に速度を落としていた馬車が、目指す遺跡に到着したという。

 崖からぬっと突き出す石の壁は明らかに自然のものではなく、入口は四角に切り取られ、内部は暗くてうかがい知れない。長い年月で埋まってしまっていたのが、最近になって壁の隅が露出してきたのだという。姉妹はそれを知るなり近くの街に根回し、時に説得をして発掘作業を依頼し、ようやく掘り起こされたのを見に来た、というのが今回の要旨である。先に言え、という苦情はやえなの心の中だけに留められた。
「近場だけど、来るのは初めてね。素晴らしい保存状態よ」
「す、すごい……!」
 目を輝かせて石の建造物に見入る二人に、やえなは姉妹の別の一面を感じて足を止める。
「遺跡好きは本当でしたか」
「まだ疑ってたの?」
 エカルラートは苦笑していても艶やかで、剣とつけかえた作業用の鞄──小さな鉄ののみや錐のような道具、それになんと焼き菓子が入っていた──を腰に提げてもなお、休暇を楽しむ令嬢そのものだ。
「へえ……遺跡とか想像つかなかったけど、面白そうだな」
 マンダリーヌの傍に控えていたレオンハルトも、低く感嘆の声をもらしてしげしげと石の壁を眺めている。
「ね、すごいでしょ? 行ってみよ!」
 リーヌは早くも蝋燭を灯し、片手にランプ、もう片手にレオンハルトの手を握って黒い入口に踏み込む。
「あれ、危ないのでは?」
「大丈夫よ。あの子も強いから心配いらないわ」
「……本当に、何故護衛なんて……」
「ふふ、建前は立派な方がいいでしょう?」
 遅れてエカルラートとやえなも、遺跡の穴のような門をくぐった。
 中は暗く、エカルラートの手燭の光がなければマンダリーヌの灯りさえ見失ってしまいそうだ。空気はこもっているが、毒になるものは漂っていない。丁寧に発掘されたようで、床は平らな面が歩きやすく、道幅も余裕があり、壁は丈夫だ。
 暗がりの中、やえなはマンダリーヌに引っ張られて前を歩く、レオンハルトの呆然とした背中を見つめる。
 まだ人を倒した衝撃が抜けきらないのだろう。もう少しそっとしておいてやってもいいだろうに、神経が細やかでないのか考えがあるのか、マンダリーヌは軽やかにレオンハルトを遺跡の奥に導く。
 ふと気づく。レオンハルトを後ろから見たことがなかったことに。消沈と動揺の余韻がいまだに濃いにも関わらず、その背は思いのほか大きくて様になっている。
 以前とは変わった服のせいかもしれない。だが、一つ経験を積んで、彼は脱皮したかのようだ。

 レオンハルトも最早守られる側ではないし、マンダリーヌも弱くはないのだろう。やえなはエカルラートにならって二人を信用することにした。興味深そうに壁を眺める赤い髪の美女に歩調を合わせ、ゆったりと進む。
「……魔法を使えるなら、こういうのは珍しくもないでしょうに」
「あら、あえて足を運ぶ苦労を取るのはとても大事よ」
 彼女の揺れる髪の先、耳飾りのきらめき、滑らかなうなじが目につくたび、つくづく古代の遺物が似合わない人だと思う。
 遺跡自体に魅力は感じないやえなだが、とある石室の入り口で覚えのある壁画を見つけてその態度は一転した。
 忽然と浮かぶひし形。それを囲むぎざぎざした線は光輝く様子を示していると見える。褪せた色でもわかる、緑と背景の空色。それはまさしく空の島。小さくはあったが、見た瞬間にわかった。
「この部屋、交信に使っていたようね」
 小声でエカルラートがやえなの疑問を補う。
「ではこの遺跡そのものが……」
「空の島と関わりがあるみたい。長く埋もれて魔気も消えてるけど」
 単純なもので、それを知ると急にこの地味な遺跡が懐かしく、昔から知っていた場所のように思えてくる。既に部屋に入っている先行二人を気にして、細々と尋ねた。
「人を空に送るとか、できますか?」
「さあ……そこまでの力はもうないと思うわ」
 エカルラートは何かを探すように、緩慢に首をめぐらせて壁から天井を眺める。彼女が持つ手燭には蝋燭一本しか立っていないが、燃える火は強い光を発して通路全体を照らしている。
「さっきも言ったけど、気配を探っても、魔気は感じられないもの。ここに残された記憶を読むにしても、そういうことが得意な気を持った人がいないと無理ね」
「あなたでも駄目ですか」
「ええ。基本的に、目に見えない事象を動かす魔気は貴重なの。そうでない人が練習するにしても、身につけるには途方もない時間がいるわ」
「…………」
 勉強になる話だ。驚嘆さえ感じて、やえなは目の前の紅玉色の瞳を見つめる。瞳孔の中で、赤い光が優しく揺らめいた。
「育ての親の教育がよかったんだって、今ならわかるわ」
「……私が聞いたのは、まだ基礎ですらなかったんですね」
 ディムグロウスが、自らの手でやえなをどこまで導く気があるのかはわからない。本人に尋ねなければはっきりしないだろう。だからせめて、この魔族の先達に、このことは聞いておきたかった。
「……ハルト、目覚めたらどうなるんでしょう」
 一言も口をきいていないディムグロウスに、失神するほど拒否反応を示した常識の塊だ。やえなとしては高位魔族の彼の下で魔法を磨いてみたいが、それには自分を一応は慕っているらしいレオンハルトの気の持ちようが課題になる。
 エカルラートはえくぼを作った。
「……最悪はあちらの魔族に加わる、最高は私たちのように平穏に暮らす、かしら? もっとも、それがいいことかは私にもわからないのだけど」
「平穏に暮らすのが? 何故ですか……」
 あいつら、とやらに見つかるからか。と付け加えようとしたが、石室から響くマンダリーヌの歓声が見事に塗り潰した。
「おねえちゃん! こっち照らしてくれる?」
「ええ」
 残念そうに薄暗い部屋の中を見るやえなに、エカルラートは軽く笑った。
「追々話しましょう。まだ時間はあるから」

 壁を覆う大きな絵の連なりには価値がつかめなかったが、素晴らしいものなのだろうとは思った。
 地を耕し、木から果樹を得る人々。あるいは長い棒を持って獣を追い立てている集団も見える。次のタイルは大きな光を手に捧げる人、その周りに火を指先に灯した人の群れ。意のままに操る、という意味だろうか。その次のタイルは大きな火で塗り潰され、その隣は黒い線で表現された焦土の絵。続いて、土くれとそこから芽生えた双葉が空より下って、その光景に平伏す人類。
 そこで終わり。
 天井に目を向けて、まずい、と思うより先にレオンハルトが声をあげた。
「なんだ、あれ……」
 頭上の絵こそが、最後の場面。
 空の浮島が小さく描かれ、その周囲の崖からは神々しく彩色された水が滝のように流れ落ちている。虹を従えながら地上に降り注ぐ水は広がって雨となり、徐々にその粒が大きくなっていく。見る者に、実際に空の島から恵の雨が降っていると思わせる工夫に他ならなかった。
「これ、おかしいじゃな……変ですよね?」
 レオンハルトの疑念は、現代の人間としてもっともなものだ。
 これも姉妹の狙いなのか、とマンダリーヌを見れば、エカルラートに呆れた視線を向けられて所在なさげに頭をかいている。単純に、確認不足だったらしい。
 伝承どおりなら、世界中の木は魔法を使った人々の悔恨と反省の証であり、汚れた魔気の浄化を担う不可侵の聖遺物だ。薪など生活に必要な物資でもあるが、そのために伐採する量を管理する樹木師がそれぞれの街に駐在している。どんな小さな村にさえも。故郷にもやたら息苦しく堅物そうな樹木師が住んでいたから、その辺りはやえなも知っている。
 雨は清浄に洗われた空気より生まれるもので、樹木のはたらきが上手くいっている証拠と考えられている。
 空の島に住む悪魔が世界を守る樹木を脅かすのであり、このように大地に恵みを与える形で雨を降らせるなどあり得ない。
「どのあたりが変なのかしら?」
 エカルラートがきちりとし過ぎた調子で言うので、やえなには彼女の微かな緊張が目に見えるようだった。それにレオンハルトが気づいた様子はない。
「だって、これじゃまるで空の島が雨を大地に恵んでるみたいですよ」
 赤い髪の魔族は頷く。既に生来の落ち着きはほとんど取り戻していた。
「ええ。でも、古い遺跡を調べていると、不思議なことにこういう描きかたをされている壁画はたまに見つかるの。ちょっと遠くの神殿跡に行った時も、似たような意味の絵を発見したことがあるし」
 目を丸くするレオンハルトに、マンダリーヌがすかさず逸話を加える。
「でも今はきっと壊されちゃってるね。傍の街の人が敷地を広げようと樹木師と相談してるのを聞いたから。もったいない。でもああいうの、大抵の人は認めたがらないからなあ」
 残念がる声色は無邪気で、レオンハルトは複雑な色を浮かべながらマンダリーヌに憐憫の目を向ける。
「そ、そっか……。色々調べたかったのに、残念だな」
「ううん。いいの。理解されない趣味だってことは、わかってるから」
 レオンハルトが見せた、驚くような光と一瞬のためらいにやえなは気づいた。その理由にも。
 不遇の幼馴染がいるのだという。魔法に興味を持ってしまったがために、人目を恐れて記録を集め、本をめくる少女が。わかってくれないと知りながら、レオンハルトにだけは古代の力の片鱗を披露してくれる、健気な存在が。
 やえなが一言、きっかけをつくればレオンハルトは聞いてくれるはず。やえなもこの二人の意見を知りたかった。
「本……」
 物静かなやえなの声に、滑らかではっきりしたエカルラートの説明がかぶさる。
「ここの絵だけど、別の見方もできるわね。この水滴一つ一つは雨を表しているのではなく、魔族の力が人々に災害や戦をもたらしていたことを示している……とか」
「え、じゃあ、今までの歴史は空の魔族が操っていたから……?」
「そう決まったわけではないわ。でも一つだけの例で空の島に好意的かそうでないかを断言するのはとても難しいし、危険よ」
 レオンハルトは小難しい顔で言われたことをかみ砕いていたようだが、やがて近くにいた少女に向き直った。
「怖くないか? あ、いや、俺はいいけど、エカルラートさんの言う通りなら、あんまりここにはいたくないんじゃないかなって……」
「うん、さっきの部屋戻ろうか」
 不器用な気遣いを察して、マンダリーヌはレオンハルトの腕を引っぱって出口へと向かう。それをあえて追わずに、やえなはエカルラートの傍に残った。
「……いいんですか。あんなこと吹き込んで」
 話題を奪ったことは気になるが、レオンハルトにわざわざ自分が不利になるようなことを言ったことも気になる。囁くように尋ねると、エカルラートの表情は芳しいものではなかったが、まだ苦笑いするだけの余裕はあるようだ。
「あの子、底に芽吹くものはとても素直よ。ただ、今は頑固が根を張っているから、一気に新しい価値観に晒したら反動で疑念に染まってしまう。自分で考える時間を与えて、少しずつ納得を促す方がいいかなって思って」
「水を、一度に大量に与えずに……ですか」
 たとえ話で答えれば、エカルラートは正解、とばかりに笑みを濃くして頷いた。
「あの本は開くと戦の景色で教訓を見せたうえで、戦いへの応用を教えるものでしょう? あの子には刺激が強すぎよ」
 やえなは目を瞬かせた。見てもいないレオンハルトの本の存在を看破し、内容まで言い当てる。エカルラートの力は光ではなく透視にも優れているのだろうか。
「そんなことまでわかるんですか」
「練習あるのみよ。剣と同じで」
「…………」
 神妙な顔で俯き、顎に手まで添えてしまうやえなを面白そうな笑い声が包む。
「そんなに難しく考えなくても大丈夫。自分の魔気が属する事象を思い浮かべ、その力を感じ取っているだけでどんどん世界は広がっていくわ。色んなことができるようになるのはその先ね」
 エカルラートは優しいが、手取り足取り教えてくれるつもりはないようだ。自らの経験でつかみ取っていく大切さを、知っているからこその姿勢かもしれない。
 やえなは視線を上げ、ぎこちない笑みを返して答えにする。
 声に頼らない会話も、難なく流れていく。こんなにつかえる心地のしない話は、初めてだった。故郷の同年代の少女たちですら、どこか一線を引いたような感覚で一人隔たっていたのに。親身になれる相手など、世界のどこにもいないと思っていたのに。
「本当は、この絵は島を褒めているんですよね?」
「ええ」
 そろって天井を見上げ、すっかり魔族同士としての会話を成立させている。
「あなたのように冷静に目覚めを受けとめられる人は珍しいのよ」
 レオンハルトも離れた今ならとやえなは、機会を逃していた質問を口にする。
「あなたは……どうだったんですか」
 エカルラートの瞳が茶目っ気を含んで、ひらひらと細い手のひらが舞った。
「私はもう駄目。パニックになっちゃって。最初にディムを見た時にすごく泣いたのも私の方だったんですって。リーヌはすぐ慣れて、目覚めもそういうものなんだって感じで受け入れてた」
 自らの力で生み出した光で、エカルラートの滑らかな肌も明るく赤い髪もきらびやかに浮きあがっている。
「意外って顔してるわね」
 自分とは対極の華やかな魔気を持つ女性に、やえなは素直に頷いた。何でもこなせると思っていた相手が思わぬ欠点をさらすと、親近感がわいてくるものだ。

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