うるさい……。
 それがやえなの現在の思考を支配していた。一瞬でも振り返ればあっという間におしゃべりな少年の餌食だ。そんな自分の行動を制限する今の環境が厭わしかった。
「それにしてもさっきのちんどん屋のおっさん、何だったんだろーな? まさかあっちの趣味じゃねーの?」
「…………」
 あっちの趣味とはどっちの趣味だか。胸中で毒づくも、口に出して答える気はない。既にやえなは彼の猛烈な話の勢いに呑まれかけている。自分の発言を憚らせるその口数の多さも、悪意が無い分かえって面倒くさかった。
「なあなあ、いいだろ。ついてっても。自分の面倒は自分で見るからさー!」
「…………」
「連れてけー!」
「…………」
 遂に、限界が訪れた。ふうっ、と息を吐いて立ち止まったやえなに、少年は背中越しでも分かる期待に満ちた眼差しを注ぐ。
「さよなら」
 やはり聞かせるつもりのない小声で挨拶を残し、やえなはこれまでにない瞬発力をもって走り出した。予備動作もなく風をきって走り出す細身の影は、さながら女鹿だった。
「あー! 待て! 待てって!!」
 同年代の子供に一度も負けた事のない俊足には自信があった。絶叫が追いかけるが、彼も走り出した時は既にやえなは道の彼方だ。彼女が自らのたなびく髪の間から背後を窺うと、もう少年は指先でつまめそうな小ささまで縮んで見えた。


 とんだ災難だった。
 外の世界にはあんなにも騒々しくてしつこい人間がいるのだ。これから気をつけなくては。
 巨大な街を一直線に港に向かうと、人ごみと暮らしの匂いに徐々に潮辛い風が混じってくる。大気の澄んだ日は故郷の高い斜面から遠く海が見えたが、ここまで鼻に痛い空気は初めて吸った。
 改めて、自分は開かれた世界にいながらなんと閉鎖的な暮らしをしていたのだろうと思う。本当は幼い頃、空に浮かぶ島を見て以来すぐにでもこうして旅立ちたかったのだ。
 だというのに、両親はとんでもない事を言い出した娘を怒りはしなかったが途方もない条件をつけてきた。晴れて自由の身となった今でさえ、突破までにかかった苦労を思うと否応なく悔しさが湧く。不快に沈みかけた思考を断ち切り、やえなは前を見据えた。
 船はどう乗るのだろうか。金が必要になるのは分かるが、仕組みなど何も知らない。うっかり無銭乗船して騒動を起こすのは勘弁という気分であるし、順当な手段をとりたいのだが、彼女にはどうしたものか見当がつかない。とりあえず西の大陸に向かう船を人々の話から推測し、渡し板の近くにいる船員らしき男に近づいた。
 それにしても塩辛い匂いだ。空気自体がつかめそうな固さを持っている気さえする。
「あの、すいません。この船、ここから西の大陸に行きますよね?」
「ああ? そうだけど、姉ちゃん乗船券買ったか?」
 そういうものがあるのか、と一人得心したやえなは売り場を尋ねる。周囲にそれらしき人も建物も見当たらないのだ。
「それならオレみたいな船の人間から買う奴も多いぜ。姉ちゃんには特別に安くしてやろうか?」
 相場のわからないやえなには、彼の示した金額に異を唱える発想もなかった。言われるままに小さな鞄の中に手を突っ込み、父から渡された路銀を探る。
「待て待て待てっ! 待てよ!」
 不本意だが聞きなれた声に、やえなは思う限り嫌そうに見える目つきで振り返った。だが、追いついてきた例の少年は不可解なまでに切迫した様子だ。
「こういうのは信頼のおける第三者が間に立つもんなんだよ! ちゃんとしたとこで買いなって!」
「な、なんだガキ……この街のもんか?」
 少年の登場そして言動に、船員ははっきりとうろたえだした。そこでやっと、やえなも自分が足元を見られかけたのだと知った。
「そうだよ。生粋のトロンヘイムの人間だ! 田舎から出てきたばかりの、うちの兄ちゃんにたかろうなんて千年早いね!」
「にいっ……!?」
 その一言に、やえなの顔が一瞬でこわばる。だが少年は全く気付かず、隣で自慢気に胸を張るばかりだ。
 苦々しそうにしていた船員にも同情の色がさす。彼女がはっきりと喋るところを聞いていれば、いくら愛想のないやえなでも間違えようがないのだ。
「おいおい、そいつは兄ちゃんじゃなくて姉ちゃ……」
「こっちの方がいいよ、兄ちゃん!」
 男顔は重々承知していた。だから邪魔になっても長年髪を切らず、実用性をおしてでも丈の長い服装で出てきたというのに。ぐるぐるとまわる思考に捕らわれ、彼女は再び手をひかれるままに歩き出した。


「で、なんでまだいるの?」
 そしてこれである。
 ぼったくりを事前に防ぎ、正規の料金で船にこぎつけたものの、相も変わらず背後に佇むのはあの少年。乗船するやいなや船は離岸を始め、もはや帰れとも言えない。
「……え?」
 しかし少年は目を瞬いて口を妙な形に開けたまま、やえなを見上げるだけだ。質問に答えるどころか、細かく視線を震わせて何に驚いたのかそわそわと自分の服を掴んだり離したりを繰り返している。
「私、ついてきていいって言った?」
「……あ、あ、ワタシ……?」
 あんなにうるさく饒舌だった彼が、言葉を失くしている。だがその動揺も理由がわからないせい、いたずらにやえなの怒りを買うだけだった。怒りを感じる事が滅多にないため自身でも感情の抑制がきかず、やえなは思わず前のめりになっていた。
「私がどうかした!? とにかく私はついてきていいなんて言ってないから、向こうに着いたらすぐに帰って!」
 声量はそれほどでもないが、刺すような鋭い声音に言った本人すら驚く。彼女がこれ程感情をあらわにするのは、空の浮島を見た時と同じくらい珍しいのだ。
「……そ、その、あんたは……」
「……?」
「お……女だったんだな」
 やえなは少年の頭をひっぱたいた。ぺしん、と非常に良い音が響く。
「いてぇ! ごめん、ごめんなさい!」
「……最低だね」
 怒鳴るなどという慣れない事で嗄らしてしまったやえなの声は、剣呑な低さを帯びる。うひっ、と小さく怯えて少年は手すりまで後ずさった。
「何逃げるの」
「い、いや、だって間違えてたから……」
「わからなかったの?」
「そりゃ手細いなーとは思ったけど、そういう体質なんだと思ってさ……。そんな目するなって、怖いから! たまに細いけど凄腕の剣士っているんだよ、ほんとに!」
 背中の手すりにしがみつくようにして弁解する少年を見ていると、滑稽な仕草に思えてきて徐々に怒りも収まってきた。大人げないとは頭の端で自覚していたのだ。一発殴ったのだからもういいだろう。
「まあ、揺れて危ないからこっち来なよ。……殴らないから」
 怯える少年を招きよせ、改めて尋ねる。
「で、私は今何と言ったか覚えている?」
「う、うん……でも嫌だ」
 俯き、頑なな返事を返す少年にやえなも自然と眉が寄る。
「何で」
「あんたは俺にとってせっかくのチャンスなんだ。ここまでついてこさせてくれたのはあんたが初めてなんだよ。やりづらいとか思うだろうけど、俺は真面目なんだ! 色々あって強くならなきゃいけないんだよ! 頼む!」
 ここまでついて来たというのは正直なところ、少年の勝手だ。強くならないといけないなど、そのような事情はやえなには何の関係もない。
 何より、長年の苦労の末ようやく手に入れた自由を、早くも見知らぬ他人のために妨げられるのが耐えられなかった。
 が、である。
 基礎的な常識は教えられているものの、自分は所詮田舎出の世間知らずだ。先程の詐欺未遂でよく思い知った。自由には相応の代償がついてくるのだ。
 彼はうるさいがその辺の事情は自分より詳しそうだし、面倒な交渉事も引き受けてくれるのでは。
「う~ん……」
 慣れぬ頭の使い方に小さな呻きが漏れる。
 しかしその事を考えても、他人を自分の一人旅に立ち入らせるのは不満が残る。眉間に指の背を当て、唸るやえなに少年がすがりつく。
「さっきみたいなのは全部俺にやらせていいからさ! 途中でもっと強そうな奴見つけたらそっち行くから……」
「寄らない、鈍感少年」
「ぐはっ……」
 一日で同じ人間に二度膝蹴りを食らわすなど、そうある体験ではない。彼の方もしかりなのに、少年はろくな回避もできずに甲板にうずくまってしまった。
「その程度で……」
 呆れる他ない。意外な強さを発揮した彼女の父親なら、今の状態から更に二太刀、三太刀は浴びせてきただろう。やえなはそんな修行に打ち勝ってやっと出立の望みを叶えた。その自負に見合うだけの実力はある。
 情緒も身のこなしも愚鈍な彼がこの先、安全な街を出て一人で生きて行けるのだろうか。故郷でも時折集落に夜盗が襲いかかってきたように、この世界は平和な場所ばかりではない。
「ごほっ、ごほっ……鈍感、少年じゃなくて……レオンハルトだっ……」
「ん?」
 そういえば名前など聞いた事もなかった。このありふれた薄茶色の髪の少年は、レオンハルトというらしい。
「長い名前だね」
「だったらハルトでいいっ……親しい奴はそう呼ぶから……げほっ」
「別に親しくない……」
 彼女の文句にもめげない少年の、邪気のない質問がやえなに飛ぶ。
「なあ、あんたは何ていうんだ?」
 独り言を聞き流すのは彼の特技なのだろう。そこは大方諦めてしまった彼女は、嘆息して名乗った。
「やえな」
 正直なところ、一人旅を煩わされるのはまだ嫌だった。だが、行く先で知らない人と会話をする事に不安があったのも事実だ。彼には条件をつけて色々役に立ってもらう事で、念願の自由を奪った埋め合わせをしてもらおう。
「そ、そっか……それじゃあやえな、これから……」
「ああ、よろしく」
 空気に任せて承諾を得ようと思っていたのだろう、窺うようなレオンハルトの顔色がぱっと明るくなった。
「え!? ほんとにいいのか!?」
「本当は嫌だけどさっきの活躍のお礼に。ちゃんと交渉はするんだよ」
 その言葉にどれだけ彼にとって不利な条件が付与されているのか、不幸にも知らないレオンハルトはじわじわと喜色を顔じゅうに広げ、遂には拳を突き上げて絶叫した。
「い……いやったぁーーー!」
「うるさ……」
 けたたましく騒ぎながら甲板を踏み鳴らすレオンハルトの頭を再度、軽く叩いていさめる。
「いってぇな……すいません」
「ん」
 無理を言って同行を許された存在なのだ。そして膝蹴り二発で実証済みの力の差は、即座に勝気な少年を黙らせる威力もあった。
 残念ながら、レオンハルトに彼女への反抗はあり得ない。
「じゃあ、私は船室にいるから適当に時間潰しててね」
 そう言って、やえなは海の苛烈な日差しの中から階段へと消えていく。
 しかし彼女の耳には届いていた。彼がどこの誰とも知れぬ者に誓う、酷く真面目な声音が。
「待ってろよ、フィジリアーテ……。俺は諦めたりしないからな」
 あの身勝手で強引でうるさい少年にも、やえなと同じく強く求めるものがあるようだ。
「ふうん……」
 若干の共感を覚えたやえなは、珍しくも、少女のものらしい長い名前を記憶にとどめる事にした。


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