船室から出てきたやえなを見た瞬間、レオンハルトは絶句した。
「何?」
 さらりとした黒髪を高い位置で束ね、颯爽と港に降り立つその姿は女とわかっていてもその凛々しさを認めざるを得ない。
「俺、かっこよさでこの人に負けたかも……」
 ちらりと視線をよこしたやえなに彼は縮み上がったが、もう怒る気も関心もないらしい。結び目を器用に指一本で解くと、軽やかに髪を揺らしながら先を歩き始めた。


 船旅の疲れも気にかけず、やえなは小さな港町を出た。初めて訪れた街の名前すら求める事もなく、さっさと前をゆく後姿をレオンハルトはせわしなく追いかける。
 故郷よりも不揃いな煉瓦で舗装された道を小走りで越え、足の裏に伝わる石の感触が柔らかな土へと変わると、脇を固める小さな家々がまばらになり、視界に入る緑の量もぐんと多くなってきた。
 それでもやえなは歩みを止めない。
(本当に、根無し草みたいな人だな……)
 だが、その健脚は世界中を剣一本で渡り歩いてきたためなのだ、とハルトはまだ純粋に信じ切っている。
 どれほど歩いただろうか。左右はとうにだだっ広い草原と、その向こうに暗い森が広がる何の珍しさも無い景色にとってかわられている。頭上にはのどかな千切れ雲が淡々と流れている。小さくともそれなりに賑わいを見せていた港町の人気はとうに失われ、後ろを歩いていた同船の旅人も分かれ道でぽつぽつといなくなった。今や、振り返っても歩いているのは自分とこの黒い同行者だけという侘しい有様だ。
 さすがにレオンハルトも憔悴し出した頃、ようやく彼女は歩を休めて、唐突に大きな伸びをした。
「ん~っ……!」
 遂に訪れた貴重な休息の時間だ。彼女の意図は全く読めないが、レオンハルトはここぞとばかりに道端に座り込んだ。
「あ~、死ぬ~……」
 足を投げ出して疲れを揉みほぐす彼を、やえなは今思い出したかのように振り返る。
「死ぬって、何が」
「俺が」
 彼女の真似をして短く答えるも、当の本人の反応は薄い。冗談が通じる相手でもなさそうだったので、視線を落としたレオンハルトは自分の足をあちこち掴みながら、細いブーツの先に尋ねた。
「何であんなに急いでたんだよ」
「海の濃い風って疲れるし荒っぽいし、好きじゃないから」
 剣を振るう者に似つかわしくない詩的な返答に、思わず目を上げそうになる。
「……なんだそりゃ。海の風が強いのは当たり前だろ」
「私は山の生まれだから」
 今度は意図的に目を上げた。港を有しながら山間に深く切り込む独特の形をしたトロンヘイムの周囲には、山暮らしを営む少数民族が多いと聞いた事がある。
「何?」
 遥か上を見上げていたやえなが、やや焦ったように視線を戻す。その時まで、彼女は空を見ていたのだ。
 そういえばここまで来る時もさりげなく空を見てたよな、とレオンハルトは何とはなしに思い描く。
「お空の悪魔の根城でも探してんのか?」
 その問いに、やえなはかすかな騒擾を見せた。といっても常に感動に乏しい彼女の、更に僅かな揺らぎである。少しばかり瞳が震えたかと思うと、その惑いは一瞬で無へと消えてしまった。当然、彼が気づくはずもない。
「まさか。私が探しているのは別の人」
 話題を逸らそうとして持ち出したその言葉が、実はそれほど逸れてもいない事にやえなは言ってしまってから気づく。自らに苛立つようなその動揺もまた、レオンハルトの感知できるものではなかったが。
「それ、仕事か?」
 興味深そうなレオンハルトに、無表情の中へ鬱陶しさを包み隠したやえなの答えが冷たく降り注ぐ。
「……別に。ただの私用」
 案の定好奇心をあらわに目を開く、この人に関心を持ちすぎる少年をどう置いて行こうかとやえなは少しばかり本気で考えてしまう。
「ふーん、それなら俺も協力してやるよ! ついて行かせてもらってるんだしな」
「いらない」
 と言えば理由を問われるに決まっている。頭の中だけで頭を抱え、表情は変えずに渋々探し人の特徴を羅列した。叩き込まれたように一度で覚えた彼の人の特徴は、意識すら必要とせずすらすらと流れ出てくる。
「名前はディムグロウス。銀の髪に右目が緑、左目が紫。ティデール王国にいるらし……」
「待て! 目の色が違うのか!?」
 急に態度を変えて鋭く叫ぶレオンハルトに、げんなりしたのは幾度目だろうか。しかし、それが何、と聞き返したやえなの声色は平素の無感動さを保ち続ける。貴重な空の島へ続く手がかりである人間の話だ。喧嘩を売って棒に振る真似はしたくない。
「そうみたいだけど……父がそう言ってたから」
「あんたの親父さんが探せって言ったのか!?」
「そうだけど」
 信じられない、と満面で示すレオンハルトの顔は、非難すら混じっているように見える。まずい事を言ったのかと心持慎重になって、今度はやえなから尋ねる。
「どうかしたの?」
「お前、何とも思わないのか? 本当にそいつに会うつもりなのか?」
「その人の事知ってるの?」
「知らねえ! 知るわけないだろ! でもおかしいだろ、娘にそんな奴に会えって勧めるなんてさ!」
 その言葉に、やえなは返答の文言を失う。知らない人間を姿かたちの話だけで拒絶する、その頑固さに不本意な苛立ちが走る。その時のレオンハルトは、まるで彼女が故郷で突き放してきたりとやのようであったからだ。無神経な少年を説諭するつもりは砂粒ほどもないが、思った瞬間には説教くさい文句を口走っていた。
「その人を知らないのに会いたくないって、普通言う?」
 するとレオンハルトはふと落ち着いたように表情を曇らせ、視線を逃がす。
「そうか、やえなは色々知らないんだもんな……」
 微かな反発と得体の知れない疑念が湧きあがり、自然と彼女は口を閉ざした。頂点を過ぎた春の太陽の下、のどかな景色の中、不釣り合いに重い沈黙でレオンハルトに先を促す。しばらくその沈黙の意味がわからず戸惑っていたレオンハルトだったが、遂にその意図を解して一息に答えた。今まで会話がすれ違っていた要因を。
「左右の目の色が違うのは、強い魔の力を持つ魔族の証なんだ。やえながどこまで知ってるかは知らないけど、それがこの世界の伝承で、常識だ」
「……!」
 そのような言い伝えは、誰も教えてくれなかった。再び、彼女は絶句した。全てを理解した上での絶句は、自分の無知を暴かれたために余計に口がきけなくなる。
 そんな話を真剣に信じるなんてと思わないでもなかったが、この世界はその真偽不明の伝承を真剣に信じているのだ。魔法でしかあり得ない空の浮島を見た瞬間、少なくとも彼女は魔法を邪悪とは感じなかったというのに、だ。
 そうして痛感する。外界に飛び出した自分には、まだ自由は無かったのだと。もう存在しない脅威に怯える世界に、口を塞がれている。その現実はやえなを愕然とさせた。
「そういうものか……」
 と蚊の鳴くような声で呟いたやえなを、レオンハルトは一瞬哀れむような目で見たがすぐに声を改めて微笑した。彼が自分で呼んでいる、いわゆる接客の笑顔というもので。
「ほんっとうに世界を知らないんだな。ここはひとつ、世界の旅人を相手に商売してきたこの俺が分かりやすく説明してやろう!」
 芝居がかった口調は、無理に彼女を慰めているようにも聞こえる。純朴な少年の気遣いを振り払うほど無情な気分ではないし、教えてくれるのなら従うべきだろう。そう思ってやえなは素直に頷いた。


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