この世界には三つの大陸が存在する。まずやえなとレオンハルトの出身、トロンヘイムと周辺山地を有するヴェルディア大陸。その北西に位置し、今二人が土を踏んでいるエスディア大陸。そしてエスディア大陸の真東、ヴェルディアの北東に浮かぶのがアルキア大陸。
「それは知ってる」
「じゃあこの三つの大陸を合わせて何て呼ぶか知ってるか?」
「…………」
「ふふん、なら今覚えとくんだな」
 これらの大陸を総称して外界の人間はエクメネ、と呼ぶ。つまりこの世界の名前だ。
「エクメネ……」
「滅多に使わないけど常識中の常識だからな」
 この世界は三つの大陸で成り立ち、そして完結している。この陸地を囲む海洋は穏やかで風も常に凪いでいる。しかし大陸から遠く離れた海域を航行していくと、急に恐ろしいまでの嵐が立ち現れ、逃げる間もなく船を沈めてしまうらしい。
 らしいというのは、過度に遠洋に出港した船が例外なく失踪を遂げていて確定が難しいためだ。が、嵐が起こって船が沈むのは本当のようだ。どんな立派な船でも、外海に出た途端無残な板切れを残して消え去ってしまうのだから。
 この世界エクメネの人間はこれら三つの大陸に閉じ込められているとも言える。しかしそれが何の不都合をもたらすというのか? 場は限られているとはいえこの世界は広い。争いは起こるが、それでも人々はそれぞれの暮らしを営み、歴史を積み重ねてきた。月並みの安寧が盤石であるというのに、わざわざ死の嵐を突破しようなどと考えるのは余程の変わり者か自殺志願者ぐらいだろう。
「海の外に出たいなんて言うなよ? いくら俺でもそこまで付き合いきれないからな?」
「海の外に興味はない」
「……ならいいけど」
 三つの大陸にはそれぞれ、英雄と呼ばれる者がいる。遥か昔、魔の力を用いた忌まわしい大戦が世界を覆った時、魔法に頼らず戦った者たちの事である。自らの武術で生まれ故郷を守り、大陸が魔の力に沈む事を防いだ。旅の剣士など、今なお人々が武の腕を磨くのは彼らの誠実な功績によるものだ。
 ヴェルディア大陸はリツィアー・ルクエンとカーデュアス・コラロイド。前者は己の槍のみで戦った容姿端麗な男、後者は大剣を操る赤毛の大男であったという。
 エスディア大陸はジフラーテ・ピューラ。弓の扱いに長じた美しい女性だったという。
 アルキア大陸の英雄は残念ながら名前が残っていない。現代でも細かく分かれた国々が衝突を繰り返すこの大陸は、一体誰が災厄から守ってくれたのか。歴史家の尽きないロマンだ。
 そして、火を操る力を持ちながら例外的に評価の高い魔族がいる。
 ピーネイロと呼ばれる女戦士は、魔の力を行使して自在に炎を生み出した。しかし、付き従っていた上官に裏切られて戦場で孤立した結果、自ら作り上げた炎を飲みこんで自害した。その潔さが賞讃され魔族の中でピーネイロだけは名前も残り、容姿も輝くばかりの金色の瞳と金髪混じりの赤毛と、非常に詳細に伝わっている。
「魔族なんてって言う奴もいるけど、俺はこいつの事好きだな。死に際までかっこいいなんて反則だろ」
「ピーネイロの話は知らなかった……」
「これで一通りの常識は終わりだな。また何か思い出したら言うよ」
 得意げなレオンハルトの面持ちを見て、やえなもつられて少しばかりの満足感を覚える。ものを教えた事がこの少年の自尊心を満たしたのなら、素直に教えを乞うた方も気分がいい。
「でもな、話を戻すと……」
 が、そんな風に都合よく解釈する余裕を与えてくれるほど、レオンハルトはいい加減な人間ではないらしい。やえなは気分が急降下するのを感じた。
「強い魔族の証を持った人間は不吉なんだ。どれだけ古代大戦が昔の話で、今魔法が絶えて無くなっていたとしても、俺はそんな人探し嫌だね。親父さん、からかってんのか知らなかったのか、どっちかじゃねえの?」
「……じゃあいい。その人は私一人で探すから」
 今度は本当に頭を抱えて、低いため息と共に答えた。この少年も世界の常識に染まった、彼女に言わせれば『気を許せない人間』なのだ。深入りして詮索されたくない。
「やめた方がいいって。何されるかわかんないぞ?」
 その言葉は無視し、やえなは両ひざに手を置いて大義そうに立ち上がる。
「先行くよ」
 おい、と遠慮がちにかけられた声も同様に無視して彼女は足早に道を行く。強い黙殺にレオンハルトも諦めたようだ。土ぼこりを払う音がしてから、砂利を踏む音が追いかけてきた。


 地平線上にぽつんと見えていた森に入ってすぐ、とうとうレオンハルトが木の根に足をとられて倒れこんだ。
「大丈夫?」
「うえ~……もう駄目だ……死んだ……」
「生きてるよ」
 子供らしい極端な比喩も冗談も受け付けず、やえなは手近な木の枝を拾い始めた。薪を探しているのだ。
「いいよ、休んでな」
 深い息を繰り返す体を持ち上げたレオンハルトを声だけで制し、手際よく小枝を集め終わると彼の目の前にまとめて落とした。そして予想外の彼女の気遣いに目を白黒させる彼には一瞥もくれず、小さな荷物から小さな箱を取り出す。
「え、それってまさか……」
 やえなはレオンハルトに一瞬視線をよこしたが、直ぐに手元に目を落とすと箱の中から指ほどの短さの棒を引っ張り出す。棒の先端には赤い丸い何かがついていて、そこを勢いよく箱の側面にこすり付けると眩しい炎が現れた。
「なんであんたマッチ持ってんだ?」
「え? これも禁忌?」
 火のついた棒を指先でつまみながら、やえなはきょとんとしてレオンハルトを見返す。暗い夕方の森の中、唯一の光源を手にする彼女は、長い黒髪も相まって不気味な様相だ。
「いや、マッチは禁忌じゃない。でもそういうのは街の店で買うもんだろ? あんたいつの間にそんなとこ寄ったんだ?」
「父がくれた」
 あっさりと返事を終えるとやえなは枝の山に小さな炎を放り込む。その無造作さにレオンハルトはぎょっとなったが、そこは慣れているのか、彼女はきちんと周囲に枝も草もない場所を選んで火をおこしていた。
「あんたの親父さん、何者なんだ?」
 大きくなる火を見つめながら、彼は静かな声で尋ねた。その色には疑念も不信もない。ただ戸惑っているのだろうか、とやえなは薄い情動で橙に染まる少年の顔を見つめる。
「普通の人。でも刀剣収集が趣味で、そういうの見る時はにやにやしてた。そこだけは変人だったかな」
「だった?」
「生きてるよ」
 なんかさっきも同じ台詞言ってなかったか? そう思うとレオンハルトは失礼とわかりながらも噴き出してしまう。
「ハルトが言わせたんだよ」
「わ、悪い……」
 そこで彼はある事に気づいた。些細だが、本人には喜ばしい大事な事だ。
「そういえば、俺の事名前で呼んだ?」
「え? ああ……。それが?」
「それがじゃねえ! すごい事じゃないのか!? やえなが人を名前で呼ぶなんて、結構レアだろ?」
「故郷ではみんな名前だった」
「それは抜いて! やべえ、俺やえなに初めて名前で呼ばれた外の人間第一号かも!」
「…………はあ」
 やえなの気の抜けた返事にも、レオンハルトは一顧だにせずはしゃいでいる。何故それがそんなに嬉しいのか、やえなにはてんで理解が及ばない。実際、彼女が彼をそう呼んだのも、全く何のこだわりもない偶然の産物だったのだから。
 だが、本人が喜んでいるのならそれでいいのだろう、と彼女は簡単に片づける。わかりづらい少年ではあるが、世界の常識を教えてくれるだけの親切心はあるのだ。
「今日は勉強になったよ、ありがとう。私は先に休む」
 そう言ってやえなは近くの樹に手をかける。軽々と飛び上がって幹をつたい、丈夫そうな大枝に座りこんだ。動きづらそうな長い服装を感じさせない、軽やかな動きだった。
 その様子を目を丸くして見ていたレオンハルトが、呆けた声を上げる。
「うわ~、やえなってやっぱすげえな……」
「…………」
 彼女にとって木登りなどどうという事はない技術だ。純粋を悪と感じる事はないが、自分にとって当然の物事にいちいち驚かれるのはやはり、面倒だった。またしても些細な鬱屈が胸に芽生える。
「寝る時は火、消してよ」
 素っ気なく言葉を言い落とすと、やえなは黒い闇が広がるあさっての方向を向いた。そのまま眠ってしまうかと見えたが、彼女は不意に顔を上げて何もない真正面を見つめると、音もたてずに地上に降り立った。
「どうした?」
「剣の稽古、つけてあげようか」
 ベルトから鞘のままの剣を外しながら歩み寄る長身の女を、レオンハルトは素っ頓狂な声を出して凝視する。
「はぁ!?」
「実は滅茶苦茶に強かった父の直伝だよ。多少は役に立てるんじゃない?」
「お、おう……それはありがたいけど、なんで今?」
「気まぐれ」
 彼女に理由など問うても無駄だ。常に勢いと気分で動いている本能の塊なのだから。出会って数日ながら、レオンハルトにはその事がよくよく身に染みていた。今日だって止められなければ、彼女は日が沈むまで森の中を突っ切っていただろう。
 疲労は濃い。だが、彼女の気まぐれを断ればこの先当分このような好機は無い。レオンハルトは気合を入れて立ち上がった。
「おっし! じゃあいっちょ頼みますぜ師匠!」
「その呼び方はやめて気持ち悪い」
 早速、指先で小突くような突きが、鞘で打ち込まれた。
「……!」
 押された額に手を当て、初めて彼女の正確な技量を実感して彼は言葉を失う。だがそれでこそ選び取った甲斐がある剣士といえるものだ。気を取り直してレオンハルトは剣の柄を握りしめた。
 そしてしばらく後、茂る木々の下でこんなやりとりがあったという。

「フィジリアーテって彼女?」
「ぶっ!?」
「はい勝ち」
「いってええええ!! 不意打ちなんて卑怯だぞ!」
「不意を打たれる方が悪い」


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