「いてて……これで本気じゃないってんだから、やっぱ本物は違うな」
 髪の間に指を通し、膨れたこぶを撫でるとひりっとした痛みがさす。
 この前のやえなの手合せ以来、ちょくちょく練習に付き合ってもらってるが、さすがというか全然格が違う。やっぱり俺が見込んだ剣の腕は本物だったわけだ。
 ただ、自分の持ち物なのに剣の管理がゆるいのはなんとかするべきだと思う。昨日なんて鞘がきちんと留められていなかったせいで大事故になりかけた。
 いつも通りの稽古の最中、やえなが俺に振りかぶった瞬間、すぽーんと音がしそうな間抜けさで鞘が吹っ飛んだのだ。それだけなら笑い話だが、あろうことかやえなはそのまま真剣を振り下ろしてきた。
 何が「あ」だよ。「あ」じゃねえよ。あれ絶対わざとだったろ。絶対抜けた瞬間気づいてただろ。
 人の脳天を真っ二つにしそうになった癖に悪びれた様子もなく寝入ってしまったあいつに、生まれて初めての殺意を抱いたのは秘密だ。今は敵わない。だからいつか超絶強くなって仕返ししてやるだけさ。
 思い出したらムカムカと腹が立ってきたので、気を取り直して今日の宿を探す。
 トロンヘイムよりも赤味の強い煉瓦の街並みは、故郷に似ているようでやはりどこか違った雰囲気がある。これが大陸ごとのお国柄ってやつか。いつかあいつにも見せて……いや、今はそれどころじゃないな。
 この街に着くなりやえなのヤツは、
「この辺でお店見てるから、宿探してきて」
 とか言ってふらっと人ごみに消えてしまったんだから。外交面は本気で全て俺任せにするらしい。それは自分で言い出したのだからいいとして、どうやって探せってんだよ。ああ全く。
「すいませーん、ここって今日空いてますか?」
 大声で呼ばわりながら鈴のついた扉を開き、中を覗き込むと思いのほか広い室内で少しばかり恥ずかしい思いをした。中にいた数人が一斉にこちらを振り返る。
 すんません、と小声で謝って頭の後ろに手をやると、恰幅の良い、いかにも宿の女主人って感じの人が奥から近づいてきた。愛想が大事なこの商売にあるまじき緊張した表情に、俺も若干身構えてしまう。
「もしかしてぼうや一人かい?」
「……二人です」
 聞き捨てならない呼びかけは、何か訳ありな空気を読んでぐっとこらえる。確かに大人っぽさとは縁がない見た目だけど、ぼうやって……。一応おふくろと並ぶくらいの身長はあるんだけど。
「あのね、宿の人間がこういう事言うと変に思われるかもしれないけど、今この街に泊まるのはよした方がいいよ」
「へ? 何でですか?」
 思いっきりわけわからんという顔を作ってやったら、おかみさんはますます辺りをはばかるように背を屈めてこそこそと話し始めた。
「この街ね、どうやら悪魔に憑りつかれちゃったみたいなんだよ」


「こんな時にこんなとこ来ちまうなんて、あんたも大変だな」
 本気の同情なのか皮肉なのか、やえなには判別の難しい小言だった。自覚済みの目つきの悪さで彼女が睨むと、出店の主人は観念したように肩を狭めた。
「近頃……っていってももう大分経つが、毎晩この街に現れては人を殺すとんでもねえ悪魔がいるのさ」
「人を……殺す?」
 突如現れた物騒な言葉に、やえなの黒の両目が訝しげに曇る。瞬間、刃物のような眼差しの剣士が見せた人間味に安堵したのか、壮年の主人の顔色から気弱な陰が消えた。
「ああ、そうだよ。姉ちゃん、怖くなったか? でも夜、外に出なけりゃまず襲われないからそこは安心しな」
「悪魔、とは?」
 危険極まりない話ではあったが、その単語がやえなの頭にひっかかった。悪魔、と言えばこの世界では古代大戦の厄から逃れた、空の悪魔だ。主人の話が本当なら、早々にも空の浮島へ続く、魔法という鍵を、その手がかりをつかんだ事になる。
「そんだけ恐ろしいって例えの話だろ。国の首都から派遣されてくる騎士様でさえ歯が立たねえほど強いらしい。ちらっと見たとかいう騎士が言うには、そいつは赤い目と黒い目の魔族の証を持っていたそうだ。気味悪いだろう」
「……!」
 期待が顔に出ていないか不安になったのは、初めての経験だった。言葉少なに礼を言い、やえなは足早に砂糖の匂いが漂う店先を離れる。
「…………」
 まだ動悸が激しい。
 空の悪魔だとか古代大戦の魔族だとか、そんな大昔の伝承を過剰に恐れる外の世界など、馬鹿馬鹿しい。
 と、やえなは思う。
 しかし、あの神秘に包まれた空の浮島に関わるのであれば、それがどれだけ馬鹿馬鹿しくとも彼女にとって信じるに値する話になる。やえなは幼い頃、その目で空に浮かぶ島を確かに見たのだから。
 むき出しの地肌、散ってゆく土くれ、霧となって流れ落ちる真っ白な滝のしぶき。全て、やえなは鮮明に思い出す事ができる。決して邪悪ではない、荘厳ですらあった空の秘密。
 魔法は、そして禁術を行使する魔族は、存在する。島一つを浮かべる事ができる程の強大な力は今、この世にも生きている。世界はその事実を拒んでいるだけだ。
「赤い目と、黒い目……」
――左右の目の色が違うのは、強い魔の力を持つ魔族の証なんだ。
 忘れるはずもないレオンハルトの真剣な声が、やえなの中に蘇った。


「どうするんだ?」
 運よく合流を果たした彼らが細々と話し合うのは、レオンハルトが真っ先に訪ねた小さな安宿の一室。彼の顔には若干の冷や汗と泣き出しそうな焦りが滲む。ベッドに腰かけ、爪先を支点にぐりぐりと足首を回すやえなとは対照的だ。
 彼の焦りにはそれなりの理由がある。道端から窓越しに薄茶色の後頭部を見つけたやえなが、深刻な顔で話し込む宿の女将とレオンハルトに唐突に「泊まる」と切り出したのだ。
「同室でいい」
 などと言い出す彼女に、女将もろともレオンハルトは目玉が落ちんばかりの勢いで飛び上がった。
「一緒でいいなんてあんた、部屋はまだ空いてるんだよ?」
「そ、そうだぞ! 野宿みたいにちょっと離れてりゃいい、なんてわけにはいかないだろ!」
 必死でわめくレオンハルトに、やえながよこしたのはこの上なく冷酷な一撃だった。
「私に何かできると思ってるんだ?」
 心底、「そう思ってたの?」と言わんばかりの意外そうな声に、彼は言葉を失くした。
「国の騎士程の人が太刀打ちできないんじゃ、その魔族みたいな人を止めるのは無理だね。
 でも、私はやってみたいと思う。今夜、出てみる」
「そ、……そうか! そうだよな! やっぱそうこなくちゃな!」
 意図的に曖昧にされたやえなの言葉を、咀嚼するだけの心の余裕は彼には無いらしかった。歴戦の旅剣士と疑わぬ女性の発言を、無理とわかっていても挑む勇敢さと受け取りレオンハルトは一人で意気込んでいる。その両足は奇妙ながに股に歪み、膝は震えている有様なのだが。
「ハルト」
「はいっ!?」
 低く抑えられたやえなの真面目な声に、レオンハルトは再び飛び上がった。
「な……何だ?」
 真っ直ぐに、目の奥まで射抜くような純黒の視線が彼の動きを封じる。
 どぎまぎとなって顔を火照らせるレオンハルトの勘違いに気づいてはいたが、やえなは特段否定してやろうとも思わなかった。
「ついてくるなら私に頼らないでね。目の前で死なれたら夢見が悪いから、守る努力はする。でも私まで危なくなったら、責任は取らない。その時は自分で自分を守るんだよ」
 燃えるような斜陽に照らされたレオンハルトの髪は、その薄い色と混じり合って血を被ったように真っ赤に染まっている。
 平和な故郷から旅立ったばかりの彼に無情な警告をしたのは、天性の勘が彼女に告げたからだ。
 その魔族は、絶対に簡単にはいかない、と。


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