やえなが眠らずに夜半を待ち、夜闇に飛び出すと言うと、レオンハルトは目に見えて安心に顔を緩ませた。
 純朴な少年の入り乱れる誤解をやえなは看破しているのだが、自ら真意を語る真似はしない。空の悪魔の根城に行きたいがため、手がかりとなりそうな魔族らしき人に接触を試みる。などという真意は、この常識人に聞かせる内容ではない。勇ましい旅剣士の本分を発揮しようとしているのだと、そう思い込んでくれればいい。
 軽く手首を回したりして体を温めておく。そうして待つうちに夜も更け、小さな室内は目を閉じている時と同じほどの暗黒に満たされた。道から入ってくる灯りは、ない。
 すっかり夜を恐れたこの街は、街灯や燭台の用意もしないらしい。
 窓から黒い空を見上げると、そういう形の剣のように輝く細い三日月が見えた。どういうわけか、星も少ない。
 凶行にはうってつけというわけである。やえなは唇を舐めて部屋に向き直る。
「行くよ」


 静かな、夜の空気だ。
 微風が頬を撫で、髪を揺らす。適当な髪紐で一つ結びを作ったやえなの後ろを、レオンハルトが早足で追いかけてきた。
「なあ、本当に出るのか?」
「多分ね」
 無駄な質問と判断したやえなは口数も少なに答えた。出なければ出ないで諦めるより他ないし、出たなら魔法の秘密を聞き出すまでだ。
「……こういう時邪魔だな」
 やはり、レオンハルトは置いてくれば良かった。やえなの中でそんな後悔が生まれる。魔法、更には空の島について聞き出す所を、見られていいはずがない。しかし例の魔族と対峙し、そしてレオンハルトも席を外す好機が訪れるかどうか。難しい事は明らかだ。
 またしても彼への嫌悪を思い出しかけて、やえなは軽く頭を振って雑念を追い払った。考えるべき事は今、すぐ目の前にある。
 逃がすわけにはいかなかいのだ。
 この街の黒と赤の魔族は、初めて自分の足で見つけた空の島への鍵なのだから。

 ……初めて?

 やえなは立ち止まった。
 本当に初めてだっただろうか。確か彼と会ったトロンヘイムで、何か似たような人物に会った気がするのだが。
「どうしたんだよ?」
 思い違いだろうか。近頃異様に冴えてきた記憶力が思い出せないというのだから、やはり勘違いなのか。
 だが、やはりトロンヘイムで魔法に関わる体験をしたような違和感が拭い去れない。それほど重要な経験をしたのなら覚えているものだ。そして呑気に船など乗ってここまで流れてくるはずがない。何としても追いかけ、聞きだし、魔法と空の浮島の存在を確かめる。そうだ、確かにあの街で何かあった。
「っ……」
 何故、思い出せない。
 険しい顔をして前髪をかき乱すように掴むやえなに、彼女の前に回り込んだレオンハルトが青ざめる。
「おい、大丈夫か?」
 それにも答えられないほど記憶の泥にはまりこんでいたやえなの耳に、遠いがつんざくような怒声が飛び込んできた。
「出たーー!!! 例の魔族が出たぞー!!」
 突如として、静かであった夜の道が緊張感に満たされた。音を立てずに人の心ばかりがざわめく、殺気にも近い張り詰めた空気。
「やえな……!」
「国都の騎士団が巡回しているらしい。彼らよりも先に捕まえる!」
 鋭く駆けだしたやえなを、レオンハルトもまた素早く追いかける。しかしその表情は恐怖そのもので、剣の鞘に触れる指は小さく震えている。
「おい、やえな。本気か?」
「冗談だと思うなら帰って」
 レオンハルトは恐らく、略奪も人死にも目に入れた事がない生粋の都会人だ。人をも殺める魔族に近づきつつある今、怖気づくのも無理はないだろう。だがやえなは、慰める事もしなければ大丈夫と気休めを言う事もしなかった。
 ただ、魔族を捕まえる。今はその目的だけを目指してひたすらに走る。声は遠かったが、運がよければこちらに逃げてきているかもしれない。
 果たして、レオンハルトが遅れをとる前に、その姿は現れた。
「あっ……」
 屋根と屋根の上、彼女の斜め上にあたる夜闇の中を、大きな影が横切る。
 背後で息をのむ音がするが、立ち止まったやえなは既にレオンハルトの緊迫感など気にもかけていない。
 即座に逆方向へ走る。レオンハルトも追う。
 純黒の夜空にその影が浮かんだのは一瞬だったが、暗がりも時間の短さもやえなには大した問題ではなかった。
 あの大きさは、確実に人のものだ。そして意外な事に、成人男性とは言えぬ小柄な人間だった。瞬時に風景として目に貼り付いた光景を思い起こすと、やはりやえなよりも身の丈は低そうで、煉瓦を蹴った足首など縛ったようにほっそりとしていた。
――女の子……?
 呼吸を整えながら、頭上を跳ね回る黒い影を追跡する。少女らしいその影は、およそ人とは思えない跳躍力で路地の上を自在に飛び越え、挑発するようにこちらを横目で見下ろしてくる。
 やえなの深淵のような黒い瞳に、この世で最も赤い色の眼差しが注がれた。
「ひっ……!」
 レオンハルトの悲鳴を聞いて捨て、やえなは確信した。血潮のような赤。まさに噂通りだったのだから。
 鳥肌の立つような凶暴ですらある視線に、彼女は屈さない。全てのものを恐怖させる命の色を、やえなの目は正面から受け止めてもなお、その畏怖に染まらない。レオンハルトが凍りつき、置き去りにされるのも構わずやえなは少女を追い続けた。
 最早、その少女を捕まえなければ死ぬとでもいうような真剣さで、夜空を見上げながら走る。
「しつこいなあ」
 しばらくして空から降りてきたのは、紛れもなく若い女の声だった。辟易と同時に愉しむような、残酷で、それがかえって魅惑的ともとれる奇妙な声音。
――悪魔の声か。
 胸中で感想を漏らしながら、やえなは鞘のままの剣をベルトから外し、頭上を睨んだ。
「はっ……」
 小さな気合と共に、淡い緑の刀身を一振り。投げ落とされてきた巨大な針のような凶器が、重い音を立てて叩き落される。防ぎきれぬと見定めた針は、身を捻り路地を転がって避ける。
 ほとんど速度を落とさず、無傷で武器の襲来を切り抜けたやえなに賞讃の口笛が落ちてくる。やえなの目が細められたのは無論微笑ましさなどではなく、侮られた苦々しさのせいだ。
――随分挑発的な子だな……。
 だが、それは相応の実力があるからこその自信なのだろう。国都の騎士も敵わないというのだから。
 それでもやえなに戦わないという選択肢はない。どうにかしてあの人間離れした逃走をやめさせなければ。
 と思うや突然、屋根の上を駆けていた少女の姿が消える。
 はっとして立ち止まり、左右の建物の上へと視線を巡らせる。どこにもいない。
「!!」
 本能の声なき声に従い、後ろへ飛び退く。
 その場に残されたやえなの、長い髪の先が切り払われて黒い夜道に更なる漆黒をまき散らした。
「惜しい。あなた本当に凄い反射神経だね」
 舞い散る黒髪の中に降り立ち、そして立ち上がったのはやはり、やえなよりも数年分は幼い少女だった。
 今度は挑発も軽蔑もない、純粋な感心を滲ませて言うと、少女は純黒の髪に挟まれた瞼をゆっくりと持ち上げた。

――右目が緑、左目が紫――
――左右の目の色が違うのは、強い魔の力を持つ魔族の証なんだ。

 目の色に関する言葉を、ここ最近で幾度思い出しただろう。
 件の少女が瞼の下に持っていた色彩はまさしく、右目は黒、左目は赤の魔族の証だった。


「…………」
 心臓が早鐘を打つ。
 言葉一つも返せず、立ち尽くすやえなに少女はくすりと微笑む。
 まるでもう十歳は幼い子供がするような無垢な笑顔で、彼女は平然と言ったのだった。

「さすが、私と同じ魔族の素質持ちだね」


前へ 次へ
戻る inserted by FC2 system